2009年08月12日
サハリン島-詩人たちへの旅-24.帰国
2009年7月16日。玉井、中本さんの東京組の御二人がユジノサハリンスク空港から帰国する日となった。
ゆっくりと寝て、目覚めたのは6時過ぎだった。まだ、早いので寝床で、持ち歩いていたチェーホフの
「サハリン島」
の岩波文庫版を読み続ける。チェーホフのアレクサンドロフスクへの到着、デゥーエ哨所、コルサコフでの日本人との出会いなどは、私自身が行ってきたばかりの現場の臨場感にあふれている。日本で、遠いサハリンとして読んでいた時に比べて、何倍も興味深い描写となっている。
「サハリン島」の栄浜付近(スタドゥプスコエとナイプーチ)の描写を読む。この栄浜は、宮沢賢治が大正12年に訪れた場所である。宮沢賢治とチェーホフへの思い入れもあるが、サハリンへ実際に旅したことによって起きた、私自身の変化により、チェーホフの風景描写が、そのまま心に響いてくる。
「左手には霧に包まれてサハリンの岬が望まれ、右手にもいくつかの岬・・・・・。あたりには人っ子ひとりいず、鳥も蠅もいない。誰のためにこんなところで波が吠えているのか、誰がそれをここで夜ごと聞いているのか、はては、私が去ってしまったあと波は誰のために吠え続けるのか、とわからなくなってくる。
無気味だが、同時にいつまでも立ちつくし、波の単調な動きを眺め、そのすざましい吠え声を聞いていたい気にもなってくる」
(サハリン島-13)
チェーホフの孤独と不安は、サハリンの海だけが呼び起こすものではない。人が、この世に存在したことによる根源的な恐れや不安から来るものである。
しかし、チェーホフの1890年のサハリンへのこの旅がなければ、チェーホフの魂の奥底に眠っていたものを引き出し、その後の創作にあのような深さが生まれただろうか。チェーホフの文学に潜む、
「時をつなぐ鎖」
という宇宙的な感覚は、やはり、サハリン旅を契機に生まれたのかもしれない。
午前8時。ツーリストホテルでの3回目の朝食。4人とも何の問題もなく元気である。私だけが50代で、他の3人は、全員が70歳を超えているのだから、世間の標準では高齢の部類に入るだろう。玉井さんに至っては、82歳である。
しかし、3人全員がこの一週間余り、公式訪問、車、列車による移動によるハードなスケジュールに耐えて来た。腹痛も風邪もない。疲労や体調が悪いなどと言うことを一度も、誰からも聞かなかった。まして精神状態が不安定などと言うことはまったくない。強靭な肉体と精神を持つ先輩たち。
旅が続くにつれて、私の3人の先輩たちへ畏敬の念が増すばかりである。彼ら3人の酒の強さにも、改めて驚かされた。
8時30分、昨晩、「ふる里」で会った日本副総領事亀井さんから私に電話が来る。一時間後に、日本文学研究家イコンニコーワさんがホテルへ来てくれることになった。
午前9時30分、黒髪、長身の女性イコンニコーワさんがホテルのロビーに現れた。大人しい、文学少女の雰囲気を残した方である。彼女は、中本さんとはロシア語、私とは英語で話してくださる。
彼女の日本文学研究への情熱は一方ならぬものが感じられた。小熊と宮沢賢治以外には、初期の芥川作家で、北海道留萌出身の寒川光太郎にも関心があるということがわかった。
彼女が恵庭の北海道文教大学に留学している9月からの半年の間に、恵庭からさほどの距離はない旭川を是非訪ねて頂き、我々の協力のもとに、小熊の資料や写真を見て頂く様にとお話しした。おそらく、詩人小熊秀雄に関しては、大学では得られない情報や文献が旭川にはある。
小熊秀雄と言う詩人は、メジャーになる必要はないが、もっと読まれていい・・・。特に、ロシアの日本文学研究者には、日本の詩人の中でも特別な光を放つ小熊秀雄を理解してほしい。なぜならば、日本の詩人の中で小熊ほどロシア文学やロシアの詩に直接影響を受けた詩人はいないからだ。しかも彼は、現在、ロシアであるかつての樺太で、もっとも多感な青春時代の10年を過ごしているのだ。39歳で亡くなった詩人が、その四分の一の人生を過ごした樺太・・。
午前10時30分。高田さんと私は、玉井、中本さんを送るためにユジノサハリンスク空港への車に同乗する。運転手はもちろん、サーシャさんである。
雨は上がっている。東京組の御二人には、この旅に同行して頂き、どれだけお世話になり、そして旅の間、勇気づけられたことだろう。もちろん、彼らには彼らの独自のサハリンへの長年の想いがあり、それを果たすためにやってきたのだ。しかし、どこかに、この旅の4人のなかでは一番若い私が、近い将来、小熊へ捧げる文章を書くに違いないという期待がなかったとは言えない。
その私への期待感は、旭川からともに参加してきた高田さんも同様である。私は、この旅を文章にするだけではなく、文学的な意味合いで、小熊の生涯を辿る日が来るかもしれない。それは、この三人の方々のサハリンの旅の同行へ、私の感謝の表明にもなる。
別れ際、私は、もっとこの二人、玉井さんと中本さんと旅を続けたいと、心からそう願った。しかし、何事も始めがあれば、必ず終わりは来るものだ。いつか、また彼らと再会して、4人で旅の思い出話をしたいと思った。
午後1時30分。彼等を乗せた飛行機は、サハリンから東京へ向けて飛び立った。
飛行場で、日本への小さ土産ものを買う。そのからの帰り道、サーシャさんと
「黒い猫」
という名のレストランに立ち寄った。御世話になったサーシャさんへのささやか感謝の気持ちをこめての食事だった。ここで、サーシャさんの住所を書いてもらい、個人的な話もする。彼は39歳、なんと3人も子供のいる人だった。
午後3時、ツーリスト・ホテルへ戻った。私は、高田さんを残して、10日に我々4人で訪れたホテルの横の書店へ行く。私はここで
「サハリン詳細地図」
と、背表紙に文学者の顔写真が描かれている、厚い
「プーシキン」
「エセーニン」
「ドストエフスキー」
「トルストイ」
「チエーホフ」
の5冊の本を手に入れた。すべて、小熊秀雄が影響を受けたロシアの文学者たちの本である。しかし、5冊ともロシア語の本である。今は、読めない本を手に入れる・・。私は、いつか読めるようになる日が来るのだろうか。
高田さんと、さまざまなお話をする。今回の旅、高田さんの来年の小熊の没後70周年を記念して発想した幾つものエベント企画・・・。彼は、次々と新しい発想を生み、それを成功させていく。昨年、夏には、旭川市科学館プラネタリウムで
「夏の星空と小熊秀雄の詩の朗読会」
というイベントを行った。発案者は高田さん、脚本を書いたのは私、小熊秀雄の詩に合わせた音楽の選曲も私だった。もちろん、演出、朗読など他の方々の協力も得た。
大きなプラネタリウムの宇宙に浮かぶ星空を背景に、音楽が流れ、小熊秀雄の詩が朗読されたのは一年前のお盆だった。私と高田さんの二人三脚と役割分担は、こうして続き、ついには、サハリンまで来てしまったのである。
午後8時、昨日から予定していた東京外国語大学長亀山郁夫のTV特集
「ロシア-心の闇」
と題された番組を見る。前篇の今晩は、ドストエフスキーを取り上げている。「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「悪霊」「白痴」などのドストエフスキーの代表作が次々と、亀山郁夫の、これまでにはなかった切り口で紹介されている。父殺という「テーマ、ロシア正教と言うロシア特有の宗教的な背景、当時の政治的、歴史的な背景・・・。
ロシアで、日本のBSが見られ、しかもロシア文学について語る亀山氏のの放送を見ることができる・・・。なにか、出来すぎの気もするが、私に、より深くロシア文学の深い森へ入りなさいという啓示を与えられたような思いに捉われた。
後編は、小熊以外には誰にも書けなかった詩「マヤコフスキーの舌にかわって」で取り上げた詩人マヤコフスキー、さらには作家ブルガーコフ、作曲家ショウスタコービッチらが取り上げられるらしい。放映は、明後日だから、帰国後のことになる。
放送を見た後、遅くまでやっているホテルのレストランで遅い夕食を食べる。キムチとキャベツを炒めた朝鮮料理とライスを注文し、そして、高田さんと二人だけではあるがビールで乾杯をした。
東京組の玉井、中本さんの二人は、猛暑の東京へ着き、もう休んでいることだろう。
2009年7月17日の夜が明けた。天候は曇り。
午前7時30分、通訳のヴィスタさんとサーシャさんがホテルへ迎えにきた。一時間でコルサコフへ到着する。お世話になった二人と写真を撮り、別れる。
税関も、何の問題もなく通過する。サハリン時間で午前10時コルサコフ出港。船に入った段階で、私は時計を日本時間にするため、時計を二時間戻す。つまり、出港は日本時間では午前8時と言うことになる。
高田さんと私が二人で、二等船室で横になっていると、小柄な70歳前後の眼鏡をかけた日本人男性が我々のいるスペースへ入ってくる。その方と言葉を交わす。
御名前は滝沢一郎氏。ロシア語の専門家で、さらには軍事専門家。しかも元防衛大学教授というかたである。しかし、気軽に話して下さる雰囲気で、なんと我々と今回の旅のリーダーとなって下さった中本信幸さんとは知り合いだという。
さらに彼は、研究社の「露和辞典」の編集協力者として名を連ねていることを知った。私は、帰国後には
「露和辞典」
を、手にれようと決意していたが、これで迷うことなく研究社版を手に入れることにした。さらに御話をしていると、滝沢さんは50歳の時、バイクでロシアを横断し
「ソビエト大横断1万4千キロ」(文芸春秋)
という本を出しているという。この企画は、NHKが作ったものとかで、旅の間はTVスタッフが同行し、その年には放映されたという。私は、全く知らないことだったが、20年前にユーラシア大陸を横断するということは、誰も考えなかったことであり、大きな注目を浴びたことだろう。私は、TV放送は見られないかもしれないが、せめて、帰国後には本だけでも読みたいと思った。
日本時間午後1時30分。予定通り、船は稚内に着いた。滝沢さんに別れを告げ、我々は国際フェリーターミナルの駐車場に止めておいた高田さんのレガシィに乗り込む。
ここは日本である。町並みも、車の左側通行も、町を歩く人も日本人である。
高田さんと、昨年10月に詩人小熊秀雄の故郷を訪ねようと考え始めた旅は、こうして4人の旅となり、無事に目的を遂げて終わった。
我々の住む旭川に近い大雪山では、夏山で大きな遭難事件が起きたという。
高田さんと私は、稚内の「浜寿司」という中規模の回転ずしで昼食をとると、一路旭川へ向けて南下した。心の中をサハリンの風景や人々の表情が次々と流れて行く。
玉井さんが「鬼気迫る風景」といったトマリ(旧-泊居)の王子製紙工場跡。
グリゴーリーさんがどうしても我々に見せたかったアレクサンドロフスクの海の夕陽。
高田さんがビデオ撮影を行う姿。
ホルムスクで撮影した子供たちの表情・・。
夜汽車・・・。
そして、雨のホルムスクで執念の如くに立ち取材する中本さんの姿・・。
この旅は、志を同じくする玉井さん、中本さん、高田さん、そして私の4人が参加しなければ実現できなかった。一人でも欠ければ、この絶妙な旅の均衡を保つことは出来なかった。
そして、サハリンを故郷とする詩人小熊秀雄、情熱に支えられ長距離を越えて旅したチェーホフ、妹の死を悼む心を抱えて幻想の夜汽車に揺られた宮沢賢治・・・。この3人の残した軌跡がなければ、我々の情熱の行方はサハリンへは辿りつかなかった。
サハリン島-詩人たちへの旅はこうして終わりを告げた。
(全24回-完)
ゆっくりと寝て、目覚めたのは6時過ぎだった。まだ、早いので寝床で、持ち歩いていたチェーホフの
「サハリン島」
の岩波文庫版を読み続ける。チェーホフのアレクサンドロフスクへの到着、デゥーエ哨所、コルサコフでの日本人との出会いなどは、私自身が行ってきたばかりの現場の臨場感にあふれている。日本で、遠いサハリンとして読んでいた時に比べて、何倍も興味深い描写となっている。
「サハリン島」の栄浜付近(スタドゥプスコエとナイプーチ)の描写を読む。この栄浜は、宮沢賢治が大正12年に訪れた場所である。宮沢賢治とチェーホフへの思い入れもあるが、サハリンへ実際に旅したことによって起きた、私自身の変化により、チェーホフの風景描写が、そのまま心に響いてくる。
「左手には霧に包まれてサハリンの岬が望まれ、右手にもいくつかの岬・・・・・。あたりには人っ子ひとりいず、鳥も蠅もいない。誰のためにこんなところで波が吠えているのか、誰がそれをここで夜ごと聞いているのか、はては、私が去ってしまったあと波は誰のために吠え続けるのか、とわからなくなってくる。
無気味だが、同時にいつまでも立ちつくし、波の単調な動きを眺め、そのすざましい吠え声を聞いていたい気にもなってくる」
(サハリン島-13)
チェーホフの孤独と不安は、サハリンの海だけが呼び起こすものではない。人が、この世に存在したことによる根源的な恐れや不安から来るものである。
しかし、チェーホフの1890年のサハリンへのこの旅がなければ、チェーホフの魂の奥底に眠っていたものを引き出し、その後の創作にあのような深さが生まれただろうか。チェーホフの文学に潜む、
「時をつなぐ鎖」
という宇宙的な感覚は、やはり、サハリン旅を契機に生まれたのかもしれない。
午前8時。ツーリストホテルでの3回目の朝食。4人とも何の問題もなく元気である。私だけが50代で、他の3人は、全員が70歳を超えているのだから、世間の標準では高齢の部類に入るだろう。玉井さんに至っては、82歳である。
しかし、3人全員がこの一週間余り、公式訪問、車、列車による移動によるハードなスケジュールに耐えて来た。腹痛も風邪もない。疲労や体調が悪いなどと言うことを一度も、誰からも聞かなかった。まして精神状態が不安定などと言うことはまったくない。強靭な肉体と精神を持つ先輩たち。
旅が続くにつれて、私の3人の先輩たちへ畏敬の念が増すばかりである。彼ら3人の酒の強さにも、改めて驚かされた。
8時30分、昨晩、「ふる里」で会った日本副総領事亀井さんから私に電話が来る。一時間後に、日本文学研究家イコンニコーワさんがホテルへ来てくれることになった。
午前9時30分、黒髪、長身の女性イコンニコーワさんがホテルのロビーに現れた。大人しい、文学少女の雰囲気を残した方である。彼女は、中本さんとはロシア語、私とは英語で話してくださる。
彼女の日本文学研究への情熱は一方ならぬものが感じられた。小熊と宮沢賢治以外には、初期の芥川作家で、北海道留萌出身の寒川光太郎にも関心があるということがわかった。
彼女が恵庭の北海道文教大学に留学している9月からの半年の間に、恵庭からさほどの距離はない旭川を是非訪ねて頂き、我々の協力のもとに、小熊の資料や写真を見て頂く様にとお話しした。おそらく、詩人小熊秀雄に関しては、大学では得られない情報や文献が旭川にはある。
小熊秀雄と言う詩人は、メジャーになる必要はないが、もっと読まれていい・・・。特に、ロシアの日本文学研究者には、日本の詩人の中でも特別な光を放つ小熊秀雄を理解してほしい。なぜならば、日本の詩人の中で小熊ほどロシア文学やロシアの詩に直接影響を受けた詩人はいないからだ。しかも彼は、現在、ロシアであるかつての樺太で、もっとも多感な青春時代の10年を過ごしているのだ。39歳で亡くなった詩人が、その四分の一の人生を過ごした樺太・・。
午前10時30分。高田さんと私は、玉井、中本さんを送るためにユジノサハリンスク空港への車に同乗する。運転手はもちろん、サーシャさんである。
雨は上がっている。東京組の御二人には、この旅に同行して頂き、どれだけお世話になり、そして旅の間、勇気づけられたことだろう。もちろん、彼らには彼らの独自のサハリンへの長年の想いがあり、それを果たすためにやってきたのだ。しかし、どこかに、この旅の4人のなかでは一番若い私が、近い将来、小熊へ捧げる文章を書くに違いないという期待がなかったとは言えない。
その私への期待感は、旭川からともに参加してきた高田さんも同様である。私は、この旅を文章にするだけではなく、文学的な意味合いで、小熊の生涯を辿る日が来るかもしれない。それは、この三人の方々のサハリンの旅の同行へ、私の感謝の表明にもなる。
別れ際、私は、もっとこの二人、玉井さんと中本さんと旅を続けたいと、心からそう願った。しかし、何事も始めがあれば、必ず終わりは来るものだ。いつか、また彼らと再会して、4人で旅の思い出話をしたいと思った。
午後1時30分。彼等を乗せた飛行機は、サハリンから東京へ向けて飛び立った。
飛行場で、日本への小さ土産ものを買う。そのからの帰り道、サーシャさんと
「黒い猫」
という名のレストランに立ち寄った。御世話になったサーシャさんへのささやか感謝の気持ちをこめての食事だった。ここで、サーシャさんの住所を書いてもらい、個人的な話もする。彼は39歳、なんと3人も子供のいる人だった。
午後3時、ツーリスト・ホテルへ戻った。私は、高田さんを残して、10日に我々4人で訪れたホテルの横の書店へ行く。私はここで
「サハリン詳細地図」
と、背表紙に文学者の顔写真が描かれている、厚い
「プーシキン」
「エセーニン」
「ドストエフスキー」
「トルストイ」
「チエーホフ」
の5冊の本を手に入れた。すべて、小熊秀雄が影響を受けたロシアの文学者たちの本である。しかし、5冊ともロシア語の本である。今は、読めない本を手に入れる・・。私は、いつか読めるようになる日が来るのだろうか。
高田さんと、さまざまなお話をする。今回の旅、高田さんの来年の小熊の没後70周年を記念して発想した幾つものエベント企画・・・。彼は、次々と新しい発想を生み、それを成功させていく。昨年、夏には、旭川市科学館プラネタリウムで
「夏の星空と小熊秀雄の詩の朗読会」
というイベントを行った。発案者は高田さん、脚本を書いたのは私、小熊秀雄の詩に合わせた音楽の選曲も私だった。もちろん、演出、朗読など他の方々の協力も得た。
大きなプラネタリウムの宇宙に浮かぶ星空を背景に、音楽が流れ、小熊秀雄の詩が朗読されたのは一年前のお盆だった。私と高田さんの二人三脚と役割分担は、こうして続き、ついには、サハリンまで来てしまったのである。
午後8時、昨日から予定していた東京外国語大学長亀山郁夫のTV特集
「ロシア-心の闇」
と題された番組を見る。前篇の今晩は、ドストエフスキーを取り上げている。「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「悪霊」「白痴」などのドストエフスキーの代表作が次々と、亀山郁夫の、これまでにはなかった切り口で紹介されている。父殺という「テーマ、ロシア正教と言うロシア特有の宗教的な背景、当時の政治的、歴史的な背景・・・。
ロシアで、日本のBSが見られ、しかもロシア文学について語る亀山氏のの放送を見ることができる・・・。なにか、出来すぎの気もするが、私に、より深くロシア文学の深い森へ入りなさいという啓示を与えられたような思いに捉われた。
後編は、小熊以外には誰にも書けなかった詩「マヤコフスキーの舌にかわって」で取り上げた詩人マヤコフスキー、さらには作家ブルガーコフ、作曲家ショウスタコービッチらが取り上げられるらしい。放映は、明後日だから、帰国後のことになる。
放送を見た後、遅くまでやっているホテルのレストランで遅い夕食を食べる。キムチとキャベツを炒めた朝鮮料理とライスを注文し、そして、高田さんと二人だけではあるがビールで乾杯をした。
東京組の玉井、中本さんの二人は、猛暑の東京へ着き、もう休んでいることだろう。
2009年7月17日の夜が明けた。天候は曇り。
午前7時30分、通訳のヴィスタさんとサーシャさんがホテルへ迎えにきた。一時間でコルサコフへ到着する。お世話になった二人と写真を撮り、別れる。
税関も、何の問題もなく通過する。サハリン時間で午前10時コルサコフ出港。船に入った段階で、私は時計を日本時間にするため、時計を二時間戻す。つまり、出港は日本時間では午前8時と言うことになる。
高田さんと私が二人で、二等船室で横になっていると、小柄な70歳前後の眼鏡をかけた日本人男性が我々のいるスペースへ入ってくる。その方と言葉を交わす。
御名前は滝沢一郎氏。ロシア語の専門家で、さらには軍事専門家。しかも元防衛大学教授というかたである。しかし、気軽に話して下さる雰囲気で、なんと我々と今回の旅のリーダーとなって下さった中本信幸さんとは知り合いだという。
さらに彼は、研究社の「露和辞典」の編集協力者として名を連ねていることを知った。私は、帰国後には
「露和辞典」
を、手にれようと決意していたが、これで迷うことなく研究社版を手に入れることにした。さらに御話をしていると、滝沢さんは50歳の時、バイクでロシアを横断し
「ソビエト大横断1万4千キロ」(文芸春秋)
という本を出しているという。この企画は、NHKが作ったものとかで、旅の間はTVスタッフが同行し、その年には放映されたという。私は、全く知らないことだったが、20年前にユーラシア大陸を横断するということは、誰も考えなかったことであり、大きな注目を浴びたことだろう。私は、TV放送は見られないかもしれないが、せめて、帰国後には本だけでも読みたいと思った。
日本時間午後1時30分。予定通り、船は稚内に着いた。滝沢さんに別れを告げ、我々は国際フェリーターミナルの駐車場に止めておいた高田さんのレガシィに乗り込む。
ここは日本である。町並みも、車の左側通行も、町を歩く人も日本人である。
高田さんと、昨年10月に詩人小熊秀雄の故郷を訪ねようと考え始めた旅は、こうして4人の旅となり、無事に目的を遂げて終わった。
我々の住む旭川に近い大雪山では、夏山で大きな遭難事件が起きたという。
高田さんと私は、稚内の「浜寿司」という中規模の回転ずしで昼食をとると、一路旭川へ向けて南下した。心の中をサハリンの風景や人々の表情が次々と流れて行く。
玉井さんが「鬼気迫る風景」といったトマリ(旧-泊居)の王子製紙工場跡。
グリゴーリーさんがどうしても我々に見せたかったアレクサンドロフスクの海の夕陽。
高田さんがビデオ撮影を行う姿。
ホルムスクで撮影した子供たちの表情・・。
夜汽車・・・。
そして、雨のホルムスクで執念の如くに立ち取材する中本さんの姿・・。
この旅は、志を同じくする玉井さん、中本さん、高田さん、そして私の4人が参加しなければ実現できなかった。一人でも欠ければ、この絶妙な旅の均衡を保つことは出来なかった。
そして、サハリンを故郷とする詩人小熊秀雄、情熱に支えられ長距離を越えて旅したチェーホフ、妹の死を悼む心を抱えて幻想の夜汽車に揺られた宮沢賢治・・・。この3人の残した軌跡がなければ、我々の情熱の行方はサハリンへは辿りつかなかった。
サハリン島-詩人たちへの旅はこうして終わりを告げた。
(全24回-完)
2009年08月12日
サハリン島-詩人たちへの旅-23.最後の夜
チエーホフ記念文学館からツーリスト・ホテルへ戻り、コルサコフ探訪で濡れた服を着替える。
朝7時40分にアレクサンドロフスクから寝台夜行列車で、ユジノサハリンスクへ戻った。その足で雨のコルサコフへ、そして、チエーホフ記念文学館で、チェーホフ委員会の人々と会った。これで、一日のスケジュールは、終わったかに見えたが、まだまだ、我々には大切な会見が残っている。
2009年7月15日午後6時15分。ツーリスト・4ホテルから、我々4人は予約していたタクシーに乗り、駅前レーニン通りのレストラン「ふる里」へ向かう。雨はまだ降り続いている。ここで、日本総領事である「渡邊修介氏」との食事会がある。
2004年にユジノサハリンスクを経済人として訪れている高田さんによると、「ふる里」は、ロシアでも有数の高級日本料理店である。この料理店の特別室で、日本総領事渡邊修介氏が我々を待っていた。若い副領事の亀井氏も同席している。
中本さんと渡邊修介氏は、2年ほど前にサハリンで会っているという。中本さんによる3人全員の紹介が終わると乾杯となる。渡邊氏は小樽生まれである。当然の如く、小樽生まれの作家小林多喜二、伊藤整の話題から、現在のサハリンの経済状況、日本とロシアの人々の交流の実態をお話になる。そして、我々からは今回の旅の中心であったチェーホフと小熊の話などお伝えした。
渡邊氏は、私とほぼ同年代だろうか、話が淀みなく、外交官と言う立場からすれば当然だろうが、文学よりも政治、経済関連の分析力に優れた方である。そういう意味では、今回の我々4人の中では唯一の経済人高田さんが、渡邊氏と意気投合している。
料理は、寿司をはじめ、てんぷらなど日本でもあまりお目にかからないほどの高級料理が出てくる。確かに、「ふる里」は、噂通りのところらしい。
私は、副総領事の亀井さんとお話をした。彼は兵庫県加古川の出身。東大教養学部で韓国の外交政策を専攻、ロシア語と韓国語を学び、外交官試験に合格した方である。
彼は、個人的な経験を、私に告げて、こんなことを話した。
「中学生の時に、岩波文庫の小熊秀雄詩集を買いました。その後、高校で政治経済研究会という部活に入り、2年の時、新入生の入部の勧誘の会があった時に、小熊秀雄の-星の光りのように-と言う詩を入部予定者の前で読みました」
サハリンで、小熊秀雄の詩を読んだことのある人に出会う、しかも亀井さんは
「星の光りのように」
という私自身も大好きな詩をこのような形で朗読した経験があるという。さらに彼は私にこんなことを告げた。
「実はユジノサハリンスク国立大学で日本文学を研究している30代の女性でイコニゴバさんという方を知っています。しかも彼女は小熊秀雄と宮沢賢治の研究家で、9月末には恵庭にある北海道文教大学に留学します」
小熊と賢治の研究家・・・。しかも、9月に北海道へ来る。半年ほどの予定だという。高田さんに話すと、亀井さんに連絡をしておいて貰い、明日にでも彼女と会おうということになった。
亀井さんにそれを伝えると、明日の朝、私に電話をくれるという。
渡邊、亀井両氏に別れを告げる。亀井さんは、外へ出てタクシーに乗るところまで送ってきて
「私は、チェーホフでは-中二階のある家-が好きです」
と、我々に告げた。この作品は、チェーホフの中編であり、かなりいい作品である。彼は外交官であるが、やはり、小熊を中学生のころから読んでいるというだけに、なかなかの文学青年かもしれない。
ツーリスト・ホテルへ戻った。明日は、玉井、中本両氏が我々より一足先に帰国する。高田さんと私は、明後日にコルサコフから稚内へフェリーで帰国の途に就くことになっている。
つまり、忙しかった一日ではあったが、我々4人で過ごす最後の夜である。玉井、中本さんに、我々の部屋へ来ていただき、最後のお別れの酒を飲み交わした。
玉井さんは、情の人である。「王将」という古い歌があった。別れの席で
「やあると思えば、どこまでやるさ、それがあ、男の・・・」
という歌詞を繰り返し、繰り返し歌う。その後をついて、我々も歌う。
思えば、文学座談会も
第一回「詩人小熊秀雄」
は、行うことが出来たが、その後の第二回「チェーホフ」、第三回「宮沢賢治」には、全く行くことが出来なかった。毎日の過密なスケジュールでは、これらの文学座談会は不可能だった。
いつか、もう一度このメンバーで集まることがあれば是非
「文学座談会」
を引き続きやりたいと思った。
ちょうど12時を指したとき、玉井、中本さんは自分たちの部屋へ戻った。
高田さんと私は、いまだ眠ることができずに話を続けた。高田さんは、しきりと小熊が泊居にいた時の少年時代のことを語る。妹との牧歌的な会話、少年秀雄が釣りに行く話、夏祭りの思い出、厳しい冬を過ごす三木清次郎一家・・・・。
高田さんは、まるで小説家か脚本家になったように淀みなくセリフが出ていくる。
思えば、小樽から稚内を経て樺太へ移り住んだ小熊の父三木清次郎とその家族の運命は、20世紀初頭の日本の家族の運命を象徴している。そして、詩人となった小熊秀雄とその家族の生涯は、芸術という美神に執りつかれた悲劇を象徴している。
朝7時40分にアレクサンドロフスクから寝台夜行列車で、ユジノサハリンスクへ戻った。その足で雨のコルサコフへ、そして、チエーホフ記念文学館で、チェーホフ委員会の人々と会った。これで、一日のスケジュールは、終わったかに見えたが、まだまだ、我々には大切な会見が残っている。
2009年7月15日午後6時15分。ツーリスト・4ホテルから、我々4人は予約していたタクシーに乗り、駅前レーニン通りのレストラン「ふる里」へ向かう。雨はまだ降り続いている。ここで、日本総領事である「渡邊修介氏」との食事会がある。
2004年にユジノサハリンスクを経済人として訪れている高田さんによると、「ふる里」は、ロシアでも有数の高級日本料理店である。この料理店の特別室で、日本総領事渡邊修介氏が我々を待っていた。若い副領事の亀井氏も同席している。
中本さんと渡邊修介氏は、2年ほど前にサハリンで会っているという。中本さんによる3人全員の紹介が終わると乾杯となる。渡邊氏は小樽生まれである。当然の如く、小樽生まれの作家小林多喜二、伊藤整の話題から、現在のサハリンの経済状況、日本とロシアの人々の交流の実態をお話になる。そして、我々からは今回の旅の中心であったチェーホフと小熊の話などお伝えした。
渡邊氏は、私とほぼ同年代だろうか、話が淀みなく、外交官と言う立場からすれば当然だろうが、文学よりも政治、経済関連の分析力に優れた方である。そういう意味では、今回の我々4人の中では唯一の経済人高田さんが、渡邊氏と意気投合している。
料理は、寿司をはじめ、てんぷらなど日本でもあまりお目にかからないほどの高級料理が出てくる。確かに、「ふる里」は、噂通りのところらしい。
私は、副総領事の亀井さんとお話をした。彼は兵庫県加古川の出身。東大教養学部で韓国の外交政策を専攻、ロシア語と韓国語を学び、外交官試験に合格した方である。
彼は、個人的な経験を、私に告げて、こんなことを話した。
「中学生の時に、岩波文庫の小熊秀雄詩集を買いました。その後、高校で政治経済研究会という部活に入り、2年の時、新入生の入部の勧誘の会があった時に、小熊秀雄の-星の光りのように-と言う詩を入部予定者の前で読みました」
サハリンで、小熊秀雄の詩を読んだことのある人に出会う、しかも亀井さんは
「星の光りのように」
という私自身も大好きな詩をこのような形で朗読した経験があるという。さらに彼は私にこんなことを告げた。
「実はユジノサハリンスク国立大学で日本文学を研究している30代の女性でイコニゴバさんという方を知っています。しかも彼女は小熊秀雄と宮沢賢治の研究家で、9月末には恵庭にある北海道文教大学に留学します」
小熊と賢治の研究家・・・。しかも、9月に北海道へ来る。半年ほどの予定だという。高田さんに話すと、亀井さんに連絡をしておいて貰い、明日にでも彼女と会おうということになった。
亀井さんにそれを伝えると、明日の朝、私に電話をくれるという。
渡邊、亀井両氏に別れを告げる。亀井さんは、外へ出てタクシーに乗るところまで送ってきて
「私は、チェーホフでは-中二階のある家-が好きです」
と、我々に告げた。この作品は、チェーホフの中編であり、かなりいい作品である。彼は外交官であるが、やはり、小熊を中学生のころから読んでいるというだけに、なかなかの文学青年かもしれない。
ツーリスト・ホテルへ戻った。明日は、玉井、中本両氏が我々より一足先に帰国する。高田さんと私は、明後日にコルサコフから稚内へフェリーで帰国の途に就くことになっている。
つまり、忙しかった一日ではあったが、我々4人で過ごす最後の夜である。玉井、中本さんに、我々の部屋へ来ていただき、最後のお別れの酒を飲み交わした。
玉井さんは、情の人である。「王将」という古い歌があった。別れの席で
「やあると思えば、どこまでやるさ、それがあ、男の・・・」
という歌詞を繰り返し、繰り返し歌う。その後をついて、我々も歌う。
思えば、文学座談会も
第一回「詩人小熊秀雄」
は、行うことが出来たが、その後の第二回「チェーホフ」、第三回「宮沢賢治」には、全く行くことが出来なかった。毎日の過密なスケジュールでは、これらの文学座談会は不可能だった。
いつか、もう一度このメンバーで集まることがあれば是非
「文学座談会」
を引き続きやりたいと思った。
ちょうど12時を指したとき、玉井、中本さんは自分たちの部屋へ戻った。
高田さんと私は、いまだ眠ることができずに話を続けた。高田さんは、しきりと小熊が泊居にいた時の少年時代のことを語る。妹との牧歌的な会話、少年秀雄が釣りに行く話、夏祭りの思い出、厳しい冬を過ごす三木清次郎一家・・・・。
高田さんは、まるで小説家か脚本家になったように淀みなくセリフが出ていくる。
思えば、小樽から稚内を経て樺太へ移り住んだ小熊の父三木清次郎とその家族の運命は、20世紀初頭の日本の家族の運命を象徴している。そして、詩人となった小熊秀雄とその家族の生涯は、芸術という美神に執りつかれた悲劇を象徴している。
2009年08月11日
サハリン島-詩人たちへの旅-22.チェーホフ記念文学館
2009年7月15日午後4時、コルサコフから車で約1時間、我々はユジノサハリンスクへ戻った。
風が強く横殴りに叩きつける雨の中を立ちつくしていた為、靴とズボンはもちろん、上半身も濡れている。身体が冷えている。
しかし、「チェーホフ記念文学館」で、ユジノサハリンスクの文化関係の著名人で構成される「チェーホフ委員会」の方々が、我々を待っている。サハリンの旅の最後の公式訪問である。
彼等は、来年2010年が
「チェーホフ生誕150年」
にあたり、それを記念した事業をいくつか計画するために会議を開いている。その会議の後で、中本さんを中心にした日本の文学関係者、特にチェーホフに関心のある我々と会って意見を交換したいとの意向だった。
チェーホフ記念文学館は、クリルスカヤ通りに面した瀟洒な建物だった。入口に
「チェーホフの胸像」
が置かれている。チェーホフは30歳の時にサハリンを訪れた。それを考えると、青年としてはやや堂々としたチェーホフ像である。しかし、雨の中で轟然とした面構えを持つチェーホフ像もなかなか素晴らしいものである。
一体サハリン全体では何個の「チェーホフ像」があるのだろう。それに肖像画を加えると数えきれない。
きっと、チェーホフは、政治的な意図はないとしても、自分をマルクスや、レーニンや、スターリンに代わる英雄にとして偶像化されるのは困ったものだと感じているに違いない。
芸術家が好まないことを、後世の人々は、いかにも大切なこととして実行し、それを文化的なこととして祭り上げる。後世の我々が、本当にしなければならないことは、芸術家が残した作品を、心から理解することである。そして、そこから、汲み取ったものを受け継ぎ、自分の人生で表現していくことである。
胸像を作ったり、碑を作ったり、モニュメントを作るだけが、芸術家を顕彰することにはならない。
しかし、私は、サハリンの人々のチェーホフ顕彰への努力には敬意を払わなければならないと思っている。その熱意の高さには驚かされ、そこには政治的意図は感じられなかったと思う。
文学記念館の玄関を入ると、我々4人を、細見の優雅な雰囲気の女性館長エカテリーナ・ミジーノワさんが迎えてくれる。中年になると、圧倒されるロシア女性たちの中では稀な方と言っていいかもしれない。
外見では、この文学館は、そう大きくは見えない。しかし、中は意外と広く、清潔に保たれ、二階へ続く豪華な造りには驚いた。
二階の応接間には、8名のチエーホフ委員会のメンバーが我々を迎えてくれた。既に、10日に公式訪問して顔見知りのサハリン州文化局のブリノヴァさん、図書館長ワレンチーノさん、サハリン州立郷土誌博物館長プースさん、それにユジノサハリンスク大学長、サハリン州立美術館長などの錚々たるメンバーであり、うち男性は二名のみ。やはり、ロシアでは文化関係の要職は女性が占めている。
中本さんの通訳により、今回の我々の訪問地、ホルムスク、トマリ、アレクサンドロフスクへの旅の成果の報告、今後のサハリンへの日本の芸術及び文学的な立場での貢献の方法などについて語った。
旭川の小熊秀雄賞事務局長高田さんの、サハリンの各地での
「詩人小熊秀雄とサハリン」
という展示についての構想も語られた。来年は、詩人小熊秀雄の没後70年であり、旭川、東京でもイベントが計画されているが、サハリンで、チェーホフ生誕150周年と小熊秀雄没後70年の記念が同時に開催されることがあれば、それは、大きな相乗効果が考えられる。
皆さんの、我々への心からの歓迎ぶりは、心温まるものであり、そのすべては、やはり、ロシア文学者であり、チェーホフ研究者である中本さんというロシアの国賓に対する畏敬の念から起きていることだった。
私は、彼らの中本さんへの態度はもちろん素晴らしいと思った、それ以上に、素晴らしいと思ったことは、コルサコフにおける雨の中での、中本さんの飽くなき探求心と情熱的な態度だった。雨に濡れても、空腹が感じられても、探索は止むことはない。
それは、中本さんの生涯をかけたチェーホフとロシアへの愛から生まれたことだったろう。
チェーホフ委員会の皆さんと記念撮影をし、皆さんが帰った後、館長のエカテリーナさんから、館内の展示を説明して頂いた。
チェーホフのサハリンへの旅の経緯、アレクサンドロフスクでの流刑民への調査、コルサコフでの行動、「サハリン島」の英語版、日本語版などの展示などを詳細に紹介していただく。
チェーホフが、サハリンへの旅で使った布製の「旅行カバン」の展示がとても印象的だった。
流刑地アレクサンドロフスクにある「チェーホフ博物館」とは一味違った、より深く文学に焦点が当てられた展示という印象であった。
この文学館では、一言の英語も話されなかった。英語を話す人はいたのだろうが、敢えて私もロシア文学の代表者チェーホフに敬意を払って英語を使うことを自分に禁じた。
ロシア語が出来たならば、もっと、チェーホフ委員会の人々とお話が出来た筈である。非常に悔しいことだった。
ロシア語・・・。長く遠ざけてきた言葉。
サハリン、あるいはロシアへの次の旅はあるのだろうか。もしあるとすれば、ロシア語を学ばなければ、旅をする意味はなくなる。ふと、私は、日本へ帰ったらロシア語を勉強しようかと思い始めた。
風が強く横殴りに叩きつける雨の中を立ちつくしていた為、靴とズボンはもちろん、上半身も濡れている。身体が冷えている。
しかし、「チェーホフ記念文学館」で、ユジノサハリンスクの文化関係の著名人で構成される「チェーホフ委員会」の方々が、我々を待っている。サハリンの旅の最後の公式訪問である。
彼等は、来年2010年が
「チェーホフ生誕150年」
にあたり、それを記念した事業をいくつか計画するために会議を開いている。その会議の後で、中本さんを中心にした日本の文学関係者、特にチェーホフに関心のある我々と会って意見を交換したいとの意向だった。
チェーホフ記念文学館は、クリルスカヤ通りに面した瀟洒な建物だった。入口に
「チェーホフの胸像」
が置かれている。チェーホフは30歳の時にサハリンを訪れた。それを考えると、青年としてはやや堂々としたチェーホフ像である。しかし、雨の中で轟然とした面構えを持つチェーホフ像もなかなか素晴らしいものである。
一体サハリン全体では何個の「チェーホフ像」があるのだろう。それに肖像画を加えると数えきれない。
きっと、チェーホフは、政治的な意図はないとしても、自分をマルクスや、レーニンや、スターリンに代わる英雄にとして偶像化されるのは困ったものだと感じているに違いない。
芸術家が好まないことを、後世の人々は、いかにも大切なこととして実行し、それを文化的なこととして祭り上げる。後世の我々が、本当にしなければならないことは、芸術家が残した作品を、心から理解することである。そして、そこから、汲み取ったものを受け継ぎ、自分の人生で表現していくことである。
胸像を作ったり、碑を作ったり、モニュメントを作るだけが、芸術家を顕彰することにはならない。
しかし、私は、サハリンの人々のチェーホフ顕彰への努力には敬意を払わなければならないと思っている。その熱意の高さには驚かされ、そこには政治的意図は感じられなかったと思う。
文学記念館の玄関を入ると、我々4人を、細見の優雅な雰囲気の女性館長エカテリーナ・ミジーノワさんが迎えてくれる。中年になると、圧倒されるロシア女性たちの中では稀な方と言っていいかもしれない。
外見では、この文学館は、そう大きくは見えない。しかし、中は意外と広く、清潔に保たれ、二階へ続く豪華な造りには驚いた。
二階の応接間には、8名のチエーホフ委員会のメンバーが我々を迎えてくれた。既に、10日に公式訪問して顔見知りのサハリン州文化局のブリノヴァさん、図書館長ワレンチーノさん、サハリン州立郷土誌博物館長プースさん、それにユジノサハリンスク大学長、サハリン州立美術館長などの錚々たるメンバーであり、うち男性は二名のみ。やはり、ロシアでは文化関係の要職は女性が占めている。
中本さんの通訳により、今回の我々の訪問地、ホルムスク、トマリ、アレクサンドロフスクへの旅の成果の報告、今後のサハリンへの日本の芸術及び文学的な立場での貢献の方法などについて語った。
旭川の小熊秀雄賞事務局長高田さんの、サハリンの各地での
「詩人小熊秀雄とサハリン」
という展示についての構想も語られた。来年は、詩人小熊秀雄の没後70年であり、旭川、東京でもイベントが計画されているが、サハリンで、チェーホフ生誕150周年と小熊秀雄没後70年の記念が同時に開催されることがあれば、それは、大きな相乗効果が考えられる。
皆さんの、我々への心からの歓迎ぶりは、心温まるものであり、そのすべては、やはり、ロシア文学者であり、チェーホフ研究者である中本さんというロシアの国賓に対する畏敬の念から起きていることだった。
私は、彼らの中本さんへの態度はもちろん素晴らしいと思った、それ以上に、素晴らしいと思ったことは、コルサコフにおける雨の中での、中本さんの飽くなき探求心と情熱的な態度だった。雨に濡れても、空腹が感じられても、探索は止むことはない。
それは、中本さんの生涯をかけたチェーホフとロシアへの愛から生まれたことだったろう。
チェーホフ委員会の皆さんと記念撮影をし、皆さんが帰った後、館長のエカテリーナさんから、館内の展示を説明して頂いた。
チェーホフのサハリンへの旅の経緯、アレクサンドロフスクでの流刑民への調査、コルサコフでの行動、「サハリン島」の英語版、日本語版などの展示などを詳細に紹介していただく。
チェーホフが、サハリンへの旅で使った布製の「旅行カバン」の展示がとても印象的だった。
流刑地アレクサンドロフスクにある「チェーホフ博物館」とは一味違った、より深く文学に焦点が当てられた展示という印象であった。
この文学館では、一言の英語も話されなかった。英語を話す人はいたのだろうが、敢えて私もロシア文学の代表者チェーホフに敬意を払って英語を使うことを自分に禁じた。
ロシア語が出来たならば、もっと、チェーホフ委員会の人々とお話が出来た筈である。非常に悔しいことだった。
ロシア語・・・。長く遠ざけてきた言葉。
サハリン、あるいはロシアへの次の旅はあるのだろうか。もしあるとすれば、ロシア語を学ばなければ、旅をする意味はなくなる。ふと、私は、日本へ帰ったらロシア語を勉強しようかと思い始めた。
2009年08月11日
サハリン島-詩人たちへの旅-21.涙の丘
2009年7月15日午前11時30分、コルサコフ(旧-大泊)に着いた。コルサコフでも雨が激しく降り続いている。
我々4人のサハリンでの旅は7日目になる。予報では、毎日が雨で、気温も低かった。しかしサハリンへ入って以来、雨には会わず、比較的暖かい日が続いていた。
今日は、この旅で初めての雨である。
このコルサコフ(旧-大泊)という港町は、南樺太が日本領土になり、小樽から真岡への航路が開かれたのに引き続き、稚内から大泊への「亜庭丸」と「宗谷丸」が運航、
「稚泊航路」(ちはくこうろ)
と、呼ばれていた。多くの日本人の樺太への玄関口であり、太平洋戦争での敗戦前後には多くの日本人がこの港から連絡船に乗り樺太を去った。
この間、多くの文学者が、この航路を利用して樺太を訪れ、たくさんの作品を残している。何といっても、日本である。言葉も食べ物も不安はない。
ヨーロッパもアメリカも、遥かに遠い。資力も膨大な時間も必要である。それでも、明治から現代に至るまで、船やシベリア鉄道で、ヨーロッパへ渡った芸術家がいなかったわけではない。しかし、鴎外、漱石をはじめ、多くのエリートたちは、海外渡航を行っては、それぞれに飛躍している。しかし、それらの人々の数は限られている。
ロシア関連では、日露戦争前の海軍中佐広瀬武夫のロシア留学、ロシア革命後のモスクワへ、女性二人で留学し長期に渉って滞在した宮本百合子、湯浅芳子などは例外である。
文学者だけではなく、日本人にとって鉄道から船を使って、日本から比較的容易に渡れるのが最北の樺太、そして朝鮮半島、満州だった。つまり、コルサコフ(旧-大泊)は、日本人にとって、経済にも希望の第一歩の地であり続けた。
私が関心を持ち続けている文学者で、樺太へ旅しているのは
「宮沢賢治-大正13年(1923年)」
「林芙美子-昭和9年(1934年)」
の二人である。二人は、稚内-大泊航路を利用して大泊港へ入り、その旅の成果を詩や文章として残している。
日本人には、なじみの深い、樺太を訪れた旅人ならば誰もが通過していった港、コルサコフ。現在の人口は1万6000人。サハリンでは、3番目に大きな町である。
我々は、まず公式訪問先である
「コルサコフ博物館」
を訪れた。博物館は、クラスノフローツカヤ通りにあった。
黒髪に長身のロシア人女性館長マリア・オスカロヴナさんが、我々を迎えて下さる。中本さんが、我々の今回の訪問目的を説明し、幾つかのお土産と資料を彼女に渡す。2年前に、旭川市の小熊秀雄賞市民実行委員会が編集・発行した
「小熊秀雄詩撰 星の光りのように」
と、東京で玉井さんが会長である小熊秀雄協会と池袋モンパルナスの会が出した
「小熊秀雄文学アルバム」
の二冊を渡した。
マリア・オスカロヴナ館長の説明で、博物館内の説明をして頂く。ここでも、間宮林蔵の調査資料、日本時代の大泊の町の風景写真、日常的に使われた品や、神社仏閣で使われていた遺品などがきちっと展示されていることに驚く。長い間、ロシアが目を閉ざしていた歴史認識を、サハリン各地で改め、我々のような訪問者へ正確に伝える努力が行われつつある。
その後、近くのコルサコフ図書館を訪ねる。ここも、ロシアの他の施設同様に職員は女性だけである。館長さんは、出かけているとのことで、副館長の朝鮮系の女性が、我々の対応して下さる。
ここでも、コルサコフ博物館同様に、我々の用意した資料を手渡す。大変な歓迎ぶりで、我々4人を10名以上の女性職員が取り囲み注目の的だった。
分かってはいたことだが、コルサコフ図書館でも詩人小熊秀雄は全く知られていない。一方、チェーホフは、専門の展示コーナーが作られ、彼の関連の写真と本が置かれている。
サハリンでのチェーホフの注目度は、どこでも大変なものである。至る所にチェーホフ像が置かれ、チェーホフ記念館があり、図書館でも優遇されている。しかし、彼の作品の中でも読みにくいとされている
「サハリン島」
は、サハリンの人々の間で、本当に読まれているのだろうか。マルクスやレーニン、そしてスターリンに変わり文学者チェーホフがが偶像化され、実際には「サハリン島」はあまり読まれていはいないとしたら悲しい。その辺は、日本でも同じことであり、有名であることと、本当に読まれているかどうかは、関連が深くはない。
サハリンでのチェーホフ・・・現在の、チエーホフへの関心、光の当て方は、本物かどうかには多少の疑問は残る。
歓迎されたコルサコフ図書館を出ると、土砂降りの中を、先ほどの博物館館長マリア・オスカロヴナさんが、車に同乗する。我々に、現在のコルサコフを本格的に案内しようというのである。
彼女がまず案内したのは、近くの旧-亜庭神社だった。ここは、鳥居も本殿もすでになく、残っているのは下の道から本殿へ至る急な階段だけである。
続いて、今は使われていない
「旧-北海道拓殖銀行大泊支店」
を、見た。かなり老朽化しているが、コルサコフは取り壊さずに保存し続ける意向のようだ。玄関の上に置かれた羊の東部の彫刻が印象的だった。
また、近くの軍の施設内にあるコルサコフの町の紋章の入った
「鐘」
を見る。マリア・オスカロブナ館長は、雨を一切に気にせずに、次に我々を
「日本領事館跡」
へ連れて行ってくれる。ここは、日本領事館の建物はすでにないのだが、雨に濡れた土台が残っている。
1890年9月12日、アレクサンドロフスクに7月から2ヵ月あまり滞在していたチェーホフは、船で寛か、クリリオン岬を迂回し亜庭湾へ入り、コルサコフへ移動した。ここには当時、日本領事館が置かれ、チェーホフは
「日本領事の久世(くぜ)、書記官杉山、鈴木」
との交友の記録を残し、非常に好意的な印象を今に伝える。彼らとは、近郊のピクニックにも出かけ、数枚の写真も残されている。チェーホフは、日本への旅も考えていたようだが、当時、日本ではコレラが発生、日本への旅を断念する。そして、10月、チェーホフは、3か月の滞在の後、サハリンを船で出港、東南アジア、インド洋を経て、12月初めにロシア・オデッサに到着する。
土砂ぶりの雨の中で突っ立ち、4人の男と、コルサコフ博物館館長マリア・オスカロヴナさんの話は続く。雨に濡れた体は冷えて行く。
しかし、館長マリア・オスカロヴナさんの熱意、チェホフ研究者中本さんの執念が火花を放ち、土砂降りはどこかへ飛んでいる。
最後に、コルサコフ港を見下ろす展望台へ着いた。
車から降りると、鉛色の海と、雨に煙った埠頭が見えた。館長さんのマリア・オスカロヴナさんが何やらロシア語で語ると、中本さんが、すぐに私に
「この丘は-涙の丘-と名付けられています」
と、通訳して下さった。
「多くの人々の出会いと別れがあったということでしょうね」
と、中本さんが言う。
私は、その風景を見てあることに気が付いた。
「この風景は、旅に出る前に絵に描いたものです」
と、中本さんに伝えた。私は、まだ旅に出る前に、過去から現在に至るサハリンの写真の中から、いくつかの気に入った写真を選び、ペン画を描いていた。その中の一つの風景が、この
「涙の丘」
から港を臨んだものだった。
アレクサンドロフスクでも、郷土史家クリゴーリーさんが連れて行ってくれたキリエール岬の「かんぞう」の群生する高台から見た港の風景もそうだった。旅の前に、ここを描こうと考えた風景の場所へ、特に「この場所へ」と指定したわけでもないのにつれて行って貰い、その現場で私が
「これが来たかった場所」
と、気が付く。まして、今いるここが「涙の丘」などというセンチメンタルな名の付けられた場所だとは知るはずもない。
心の奥底にしまい込んだ夢や希望は、自然体でいさえすれば必ず実現する・・・。雨に打たれながら、ふとそんなことを思った。
博物館長マリア・オスカロヴナさんを博物館へ送り、コルサコフでサーシャさんの知っているセルフサービスの店で簡単な食事をとる。帰り際、私は、ウェイトレスの若い女子に、お礼の意味で
「ダ スヴィダーニャ」(さようなら)
と、声をかけた。すると、隣にいた玉井さんが
「ダ スヴィダーニャ」
と、声に出して同じウェイトレスに声を掛けた。十代と思われる彼女は、思わず、微笑む。
玉井さんは、今回の旅で、7日目にして初めてロシア語を口にした。
雨は止まない。午後3時、我々は、コルサコフから、再びユジノサハリンスクへ向けて車を向けた。
我々4人のサハリンでの旅は7日目になる。予報では、毎日が雨で、気温も低かった。しかしサハリンへ入って以来、雨には会わず、比較的暖かい日が続いていた。
今日は、この旅で初めての雨である。
このコルサコフ(旧-大泊)という港町は、南樺太が日本領土になり、小樽から真岡への航路が開かれたのに引き続き、稚内から大泊への「亜庭丸」と「宗谷丸」が運航、
「稚泊航路」(ちはくこうろ)
と、呼ばれていた。多くの日本人の樺太への玄関口であり、太平洋戦争での敗戦前後には多くの日本人がこの港から連絡船に乗り樺太を去った。
この間、多くの文学者が、この航路を利用して樺太を訪れ、たくさんの作品を残している。何といっても、日本である。言葉も食べ物も不安はない。
ヨーロッパもアメリカも、遥かに遠い。資力も膨大な時間も必要である。それでも、明治から現代に至るまで、船やシベリア鉄道で、ヨーロッパへ渡った芸術家がいなかったわけではない。しかし、鴎外、漱石をはじめ、多くのエリートたちは、海外渡航を行っては、それぞれに飛躍している。しかし、それらの人々の数は限られている。
ロシア関連では、日露戦争前の海軍中佐広瀬武夫のロシア留学、ロシア革命後のモスクワへ、女性二人で留学し長期に渉って滞在した宮本百合子、湯浅芳子などは例外である。
文学者だけではなく、日本人にとって鉄道から船を使って、日本から比較的容易に渡れるのが最北の樺太、そして朝鮮半島、満州だった。つまり、コルサコフ(旧-大泊)は、日本人にとって、経済にも希望の第一歩の地であり続けた。
私が関心を持ち続けている文学者で、樺太へ旅しているのは
「宮沢賢治-大正13年(1923年)」
「林芙美子-昭和9年(1934年)」
の二人である。二人は、稚内-大泊航路を利用して大泊港へ入り、その旅の成果を詩や文章として残している。
日本人には、なじみの深い、樺太を訪れた旅人ならば誰もが通過していった港、コルサコフ。現在の人口は1万6000人。サハリンでは、3番目に大きな町である。
我々は、まず公式訪問先である
「コルサコフ博物館」
を訪れた。博物館は、クラスノフローツカヤ通りにあった。
黒髪に長身のロシア人女性館長マリア・オスカロヴナさんが、我々を迎えて下さる。中本さんが、我々の今回の訪問目的を説明し、幾つかのお土産と資料を彼女に渡す。2年前に、旭川市の小熊秀雄賞市民実行委員会が編集・発行した
「小熊秀雄詩撰 星の光りのように」
と、東京で玉井さんが会長である小熊秀雄協会と池袋モンパルナスの会が出した
「小熊秀雄文学アルバム」
の二冊を渡した。
マリア・オスカロヴナ館長の説明で、博物館内の説明をして頂く。ここでも、間宮林蔵の調査資料、日本時代の大泊の町の風景写真、日常的に使われた品や、神社仏閣で使われていた遺品などがきちっと展示されていることに驚く。長い間、ロシアが目を閉ざしていた歴史認識を、サハリン各地で改め、我々のような訪問者へ正確に伝える努力が行われつつある。
その後、近くのコルサコフ図書館を訪ねる。ここも、ロシアの他の施設同様に職員は女性だけである。館長さんは、出かけているとのことで、副館長の朝鮮系の女性が、我々の対応して下さる。
ここでも、コルサコフ博物館同様に、我々の用意した資料を手渡す。大変な歓迎ぶりで、我々4人を10名以上の女性職員が取り囲み注目の的だった。
分かってはいたことだが、コルサコフ図書館でも詩人小熊秀雄は全く知られていない。一方、チェーホフは、専門の展示コーナーが作られ、彼の関連の写真と本が置かれている。
サハリンでのチェーホフの注目度は、どこでも大変なものである。至る所にチェーホフ像が置かれ、チェーホフ記念館があり、図書館でも優遇されている。しかし、彼の作品の中でも読みにくいとされている
「サハリン島」
は、サハリンの人々の間で、本当に読まれているのだろうか。マルクスやレーニン、そしてスターリンに変わり文学者チェーホフがが偶像化され、実際には「サハリン島」はあまり読まれていはいないとしたら悲しい。その辺は、日本でも同じことであり、有名であることと、本当に読まれているかどうかは、関連が深くはない。
サハリンでのチェーホフ・・・現在の、チエーホフへの関心、光の当て方は、本物かどうかには多少の疑問は残る。
歓迎されたコルサコフ図書館を出ると、土砂降りの中を、先ほどの博物館館長マリア・オスカロヴナさんが、車に同乗する。我々に、現在のコルサコフを本格的に案内しようというのである。
彼女がまず案内したのは、近くの旧-亜庭神社だった。ここは、鳥居も本殿もすでになく、残っているのは下の道から本殿へ至る急な階段だけである。
続いて、今は使われていない
「旧-北海道拓殖銀行大泊支店」
を、見た。かなり老朽化しているが、コルサコフは取り壊さずに保存し続ける意向のようだ。玄関の上に置かれた羊の東部の彫刻が印象的だった。
また、近くの軍の施設内にあるコルサコフの町の紋章の入った
「鐘」
を見る。マリア・オスカロブナ館長は、雨を一切に気にせずに、次に我々を
「日本領事館跡」
へ連れて行ってくれる。ここは、日本領事館の建物はすでにないのだが、雨に濡れた土台が残っている。
1890年9月12日、アレクサンドロフスクに7月から2ヵ月あまり滞在していたチェーホフは、船で寛か、クリリオン岬を迂回し亜庭湾へ入り、コルサコフへ移動した。ここには当時、日本領事館が置かれ、チェーホフは
「日本領事の久世(くぜ)、書記官杉山、鈴木」
との交友の記録を残し、非常に好意的な印象を今に伝える。彼らとは、近郊のピクニックにも出かけ、数枚の写真も残されている。チェーホフは、日本への旅も考えていたようだが、当時、日本ではコレラが発生、日本への旅を断念する。そして、10月、チェーホフは、3か月の滞在の後、サハリンを船で出港、東南アジア、インド洋を経て、12月初めにロシア・オデッサに到着する。
土砂ぶりの雨の中で突っ立ち、4人の男と、コルサコフ博物館館長マリア・オスカロヴナさんの話は続く。雨に濡れた体は冷えて行く。
しかし、館長マリア・オスカロヴナさんの熱意、チェホフ研究者中本さんの執念が火花を放ち、土砂降りはどこかへ飛んでいる。
最後に、コルサコフ港を見下ろす展望台へ着いた。
車から降りると、鉛色の海と、雨に煙った埠頭が見えた。館長さんのマリア・オスカロヴナさんが何やらロシア語で語ると、中本さんが、すぐに私に
「この丘は-涙の丘-と名付けられています」
と、通訳して下さった。
「多くの人々の出会いと別れがあったということでしょうね」
と、中本さんが言う。
私は、その風景を見てあることに気が付いた。
「この風景は、旅に出る前に絵に描いたものです」
と、中本さんに伝えた。私は、まだ旅に出る前に、過去から現在に至るサハリンの写真の中から、いくつかの気に入った写真を選び、ペン画を描いていた。その中の一つの風景が、この
「涙の丘」
から港を臨んだものだった。
アレクサンドロフスクでも、郷土史家クリゴーリーさんが連れて行ってくれたキリエール岬の「かんぞう」の群生する高台から見た港の風景もそうだった。旅の前に、ここを描こうと考えた風景の場所へ、特に「この場所へ」と指定したわけでもないのにつれて行って貰い、その現場で私が
「これが来たかった場所」
と、気が付く。まして、今いるここが「涙の丘」などというセンチメンタルな名の付けられた場所だとは知るはずもない。
心の奥底にしまい込んだ夢や希望は、自然体でいさえすれば必ず実現する・・・。雨に打たれながら、ふとそんなことを思った。
博物館長マリア・オスカロヴナさんを博物館へ送り、コルサコフでサーシャさんの知っているセルフサービスの店で簡単な食事をとる。帰り際、私は、ウェイトレスの若い女子に、お礼の意味で
「ダ スヴィダーニャ」(さようなら)
と、声をかけた。すると、隣にいた玉井さんが
「ダ スヴィダーニャ」
と、声に出して同じウェイトレスに声を掛けた。十代と思われる彼女は、思わず、微笑む。
玉井さんは、今回の旅で、7日目にして初めてロシア語を口にした。
雨は止まない。午後3時、我々は、コルサコフから、再びユジノサハリンスクへ向けて車を向けた。
2009年08月10日
サハリン島-詩人たちへの旅-20.雨のユジノサハリンスク
2009年7月15日水曜日、午前7時40分。雨のユジノサハリンスク(旧-豊原)へ着く。この旅では、トマリ(旧-泊居)への訪問に続いて、二度目の州都ユジノサハリンスクへの帰還となる。
玉井さんと私のコンパートメントの同室者だった初老の夫婦、そして中本さんと高田さんの同室者だったアレクサンドロフスクのチェーホフ記念館の館長ミロマーノフさんの息子夫妻に別れを告げる。
日本で私は、学生の頃には、東京-旭川間1200キロを、何度も寝台を利用して往復していた。しかし、最近は、上京するにしても飛行機を使う。本当に久々の寝台夜行列車の旅をした。
旅行作家宮脇俊三の
「サハリン鉄道紀行」
という本がある。彼の本は、日本だけではなく世界の鉄道をめぐる興味深い紀行であるが、このサハリンの鉄道を描いたこの作品も面白い。彼もこのサハリンでは、この鉄道を利用し、ユジノサハリンスク、ホルムスク、そしてアレクサンドロフスクを訪ねている。
彼は、中央公論社の編集者だった。自分の勤める出版社で、チェーホフの愛すべき小型版の「チェーホフ全集」を出している。この紀行文の中で、宮脇さんはこのようなことを告白している。
「私はチェーホフが大好きで全集を愛蔵しているが、-サハリン島-だけは、読もうとしても、とてもついて行けず、匙を投げだしてしまった。丹念で詳し過ぎて・・・。サハリンの流刑囚へのチェーホフの温い関心に頭の下がる思いはしたが。」
宮脇さんにしてさえ、チェーホフの「サハリン島」はこのような印象なのである。まして、我々の周囲で、これを読んだとか、関心を持っているとか、読み通した人に会ったことはない。宮脇さんの正直な告白に、チェーホフ・ファンもあなたでもそうでしたかとホッとしているに違いない。
ユジノサハリンスク駅には、雨の中をサーシャさんが迎えに来てくれていた。今回の旅では、最初からここまで、いつもお世話になり続けている朝鮮系の運転手・・・、彼の名がサーシャさんである。
やはり、ユジノサハリンスクは20万には満たない人口とはいえ、サハリンの中では大都会である。朝から車も多く、人も多い。この街は、アジアの極東にあり、北海道と近接しているけれど、ヨーロッパの都市に来ているという印象は否めない。かつて、20世紀初頭に40年間に渉って日本人が住んでいたといういう痕跡は、一見したところでは分からない。
かつて、日本人は、サハリン(旧-樺太)に近い形で、満州、台湾、朝鮮半島を支配し、そこに日本人が住んだ歴史を持つが、私はこれらの場所の現在の状況を知らない。
作家清岡卓行は、
「アカシアの大連」
と言う作品でこのように述べている。
「かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長いことためらったあとで、首を静かに振るだろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。もしもう一度、あの懐かしい通りの中に立ったら、おろおろして歩くことさえできなくなるのではないかと、密かに自分を恐れるのだ」
他国の都市を、自分の生まれ故郷として持つ矛盾と懐かしさ。
それにしても、、サハリンの南樺太のように40年間も日本人が住んでいた歴史があり、そこに現在住むロシアの人々が、建築物を取り壊し再建し、新しい道を作ったとしても、消し去ることのできない痕跡をどの程度まで受容出来るのか・・。
まして、中国、韓国のように日本の侵略、植民地化と言う形で自分たちの歴史の中で築き上げた町を破壊された時に、どのような気持ちをもつものか・・。
この旅の目的は、小熊秀雄、宮沢賢治、チェーホフという3人の詩人たちへの文学の旅だったが、必然的に、日本の明治、大正、昭和にかけての外国との戦争と海外での功罪と歴史を心にとどめる旅でもあった。
さらに、このサハリン、千島列島に住んでいたアイヌ他の先住民族、そして、私が現在住む北海道の先住民族との関係にも思いが及ぶ。
現在、我々が住む北海道に至っては、過去から現在まで、かつてのアイヌ民族の住んでいた文化と権利を我々日本人は踏みにじる歴史だけが先行してきたのではないか・・。
私自身、何の疑問もなく北海道に生れ、当然のように北海道に住んでいるが、もう一度、自分たちに都合のいい解釈だけではない、客観的な歴史を再認識する必要があると感じている。
そして、人種、言葉、文化の違いを乗り越えて融合していく道はあるのか・・。
グリゴーリーさんによると、現在、アイヌの人々は、サハリンには殆どいないという。第二次世界大戦後、日本人が去った時に、一緒に北海道などへ移動したのだろうか。そして、今回の旅で、とくに南で見かけた朝鮮系の人々。ホルムスクで、私が撮影した幼い少年少女も、元々をたどれば我々日本人が運命を翻弄したことになる。
そして、ギリヤークなどの北方民族は、どのようにサハリンで暮らしているのだろう。まだまだ、知らなければないことがたくさんある。
午前8時、我々の宿となっている「ツーリスト・ホテル」へ着いた。預けておいた大きな荷物を返してもらい、明日東京へ帰る中本-玉井組は303号室、明後日北海道へ帰る高田-宮川組は221号室へ入る。
すぐに1階のレストランで朝食をとる。4人ともずっと続いてるハード・スケジュールにもかかわらず、元気である。特に玉井さんは一人だけの80代、心配もあったがまったく問題はない。
朝食をとってる間も、外は激しく雨が降っている。サハリンへ来て以来、初めての本格的な雨である。
朝食後、シャワーを浴びて少しの間、休んだ。テレビをつけると、日本のNHK-BS1と2だけが見られる。東京都知事選での自民党の惨敗、相撲情報、野球情報、それに高田さんが毎日見ているNHK朝の連続ドラマも見られるのだ。
またBSの予告で、明日16日の夜8時から
「亀山郁夫-心の闇-前篇」
という番組が放映されるということがわかった。亀山郁夫は東京外国語大学学長である。最近、彼の訳でドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」と「罪と罰」を出し、かなり読まれているという。本当に、現在の日本に、ドストエフスキーが受け入れられているのだろうか。もし、そうだとしたら、彼のこの話を聞いてみたいを思った。
高田さんに
「明日、亀井さんの-心の闇-というお話をTVで見ましょうね」
と、伝える。経済人から、すっかり、文学づいている高田さんは
「もちろん、いいですよ」
と、答えてくれる。高田さんは、もと経済人とはいえ、お父さんはインド美術の研究家であり、本人はもともと東京の出版社に勤めていたので、文学的な方向と全く無縁だったわけではない。
その方が、こうして、詩人小熊秀雄を顕彰する「小熊秀雄賞」の市民実行委員会の事務局長となった。そして、私との出会いから、サハリンまで来て、小熊が少年時代を過ごしたトマリへ、そしてチェーホフが1世紀以上前に訪れたアレクサンドロフスクまで足を伸ばしたのである。
午前10時30分、またサーシャさんがホテルへ迎えに来てくれた。我々は、最後の訪問地、コルサコフ(旧-大泊)へ向かった。コルサコフは、9日夕方に、高田さんと私が乗った稚内からのフェリーが到着した地点である。しかし、車で通過しただけで何も見てはいない。
コルサコフは、チェーホフが1890年にサハリンを訪れた際に、ユジノサハリンスクから船で南下し、一月ほど滞在した街である。中本さんは、何度か訪れている。しかし、玉井さんは、コルサコフは初めての訪問である。
コルサコフへ向かう道に、雨はしきりと降っている。土砂降りと言ってもいいかもしれない。
玉井さんと私のコンパートメントの同室者だった初老の夫婦、そして中本さんと高田さんの同室者だったアレクサンドロフスクのチェーホフ記念館の館長ミロマーノフさんの息子夫妻に別れを告げる。
日本で私は、学生の頃には、東京-旭川間1200キロを、何度も寝台を利用して往復していた。しかし、最近は、上京するにしても飛行機を使う。本当に久々の寝台夜行列車の旅をした。
旅行作家宮脇俊三の
「サハリン鉄道紀行」
という本がある。彼の本は、日本だけではなく世界の鉄道をめぐる興味深い紀行であるが、このサハリンの鉄道を描いたこの作品も面白い。彼もこのサハリンでは、この鉄道を利用し、ユジノサハリンスク、ホルムスク、そしてアレクサンドロフスクを訪ねている。
彼は、中央公論社の編集者だった。自分の勤める出版社で、チェーホフの愛すべき小型版の「チェーホフ全集」を出している。この紀行文の中で、宮脇さんはこのようなことを告白している。
「私はチェーホフが大好きで全集を愛蔵しているが、-サハリン島-だけは、読もうとしても、とてもついて行けず、匙を投げだしてしまった。丹念で詳し過ぎて・・・。サハリンの流刑囚へのチェーホフの温い関心に頭の下がる思いはしたが。」
宮脇さんにしてさえ、チェーホフの「サハリン島」はこのような印象なのである。まして、我々の周囲で、これを読んだとか、関心を持っているとか、読み通した人に会ったことはない。宮脇さんの正直な告白に、チェーホフ・ファンもあなたでもそうでしたかとホッとしているに違いない。
ユジノサハリンスク駅には、雨の中をサーシャさんが迎えに来てくれていた。今回の旅では、最初からここまで、いつもお世話になり続けている朝鮮系の運転手・・・、彼の名がサーシャさんである。
やはり、ユジノサハリンスクは20万には満たない人口とはいえ、サハリンの中では大都会である。朝から車も多く、人も多い。この街は、アジアの極東にあり、北海道と近接しているけれど、ヨーロッパの都市に来ているという印象は否めない。かつて、20世紀初頭に40年間に渉って日本人が住んでいたといういう痕跡は、一見したところでは分からない。
かつて、日本人は、サハリン(旧-樺太)に近い形で、満州、台湾、朝鮮半島を支配し、そこに日本人が住んだ歴史を持つが、私はこれらの場所の現在の状況を知らない。
作家清岡卓行は、
「アカシアの大連」
と言う作品でこのように述べている。
「かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長いことためらったあとで、首を静かに振るだろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。もしもう一度、あの懐かしい通りの中に立ったら、おろおろして歩くことさえできなくなるのではないかと、密かに自分を恐れるのだ」
他国の都市を、自分の生まれ故郷として持つ矛盾と懐かしさ。
それにしても、、サハリンの南樺太のように40年間も日本人が住んでいた歴史があり、そこに現在住むロシアの人々が、建築物を取り壊し再建し、新しい道を作ったとしても、消し去ることのできない痕跡をどの程度まで受容出来るのか・・。
まして、中国、韓国のように日本の侵略、植民地化と言う形で自分たちの歴史の中で築き上げた町を破壊された時に、どのような気持ちをもつものか・・。
この旅の目的は、小熊秀雄、宮沢賢治、チェーホフという3人の詩人たちへの文学の旅だったが、必然的に、日本の明治、大正、昭和にかけての外国との戦争と海外での功罪と歴史を心にとどめる旅でもあった。
さらに、このサハリン、千島列島に住んでいたアイヌ他の先住民族、そして、私が現在住む北海道の先住民族との関係にも思いが及ぶ。
現在、我々が住む北海道に至っては、過去から現在まで、かつてのアイヌ民族の住んでいた文化と権利を我々日本人は踏みにじる歴史だけが先行してきたのではないか・・。
私自身、何の疑問もなく北海道に生れ、当然のように北海道に住んでいるが、もう一度、自分たちに都合のいい解釈だけではない、客観的な歴史を再認識する必要があると感じている。
そして、人種、言葉、文化の違いを乗り越えて融合していく道はあるのか・・。
グリゴーリーさんによると、現在、アイヌの人々は、サハリンには殆どいないという。第二次世界大戦後、日本人が去った時に、一緒に北海道などへ移動したのだろうか。そして、今回の旅で、とくに南で見かけた朝鮮系の人々。ホルムスクで、私が撮影した幼い少年少女も、元々をたどれば我々日本人が運命を翻弄したことになる。
そして、ギリヤークなどの北方民族は、どのようにサハリンで暮らしているのだろう。まだまだ、知らなければないことがたくさんある。
午前8時、我々の宿となっている「ツーリスト・ホテル」へ着いた。預けておいた大きな荷物を返してもらい、明日東京へ帰る中本-玉井組は303号室、明後日北海道へ帰る高田-宮川組は221号室へ入る。
すぐに1階のレストランで朝食をとる。4人ともずっと続いてるハード・スケジュールにもかかわらず、元気である。特に玉井さんは一人だけの80代、心配もあったがまったく問題はない。
朝食をとってる間も、外は激しく雨が降っている。サハリンへ来て以来、初めての本格的な雨である。
朝食後、シャワーを浴びて少しの間、休んだ。テレビをつけると、日本のNHK-BS1と2だけが見られる。東京都知事選での自民党の惨敗、相撲情報、野球情報、それに高田さんが毎日見ているNHK朝の連続ドラマも見られるのだ。
またBSの予告で、明日16日の夜8時から
「亀山郁夫-心の闇-前篇」
という番組が放映されるということがわかった。亀山郁夫は東京外国語大学学長である。最近、彼の訳でドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」と「罪と罰」を出し、かなり読まれているという。本当に、現在の日本に、ドストエフスキーが受け入れられているのだろうか。もし、そうだとしたら、彼のこの話を聞いてみたいを思った。
高田さんに
「明日、亀井さんの-心の闇-というお話をTVで見ましょうね」
と、伝える。経済人から、すっかり、文学づいている高田さんは
「もちろん、いいですよ」
と、答えてくれる。高田さんは、もと経済人とはいえ、お父さんはインド美術の研究家であり、本人はもともと東京の出版社に勤めていたので、文学的な方向と全く無縁だったわけではない。
その方が、こうして、詩人小熊秀雄を顕彰する「小熊秀雄賞」の市民実行委員会の事務局長となった。そして、私との出会いから、サハリンまで来て、小熊が少年時代を過ごしたトマリへ、そしてチェーホフが1世紀以上前に訪れたアレクサンドロフスクまで足を伸ばしたのである。
午前10時30分、またサーシャさんがホテルへ迎えに来てくれた。我々は、最後の訪問地、コルサコフ(旧-大泊)へ向かった。コルサコフは、9日夕方に、高田さんと私が乗った稚内からのフェリーが到着した地点である。しかし、車で通過しただけで何も見てはいない。
コルサコフは、チェーホフが1890年にサハリンを訪れた際に、ユジノサハリンスクから船で南下し、一月ほど滞在した街である。中本さんは、何度か訪れている。しかし、玉井さんは、コルサコフは初めての訪問である。
コルサコフへ向かう道に、雨はしきりと降っている。土砂降りと言ってもいいかもしれない。
2009年08月09日
サハリン島-詩人たちへの旅-19.寝台夜行列車
2009年7月14日、午後6時30分。グリゴーリーさんと別れを告げた我々4人は、ロシア製の市長専用の大型ワンボックスカーでティモフスクへ向かった。
アレクサンドロフスクの町を出るとき、道傍に北海道旭川周辺の郊外でも夏になると見かける
「やなぎらん」
の花を見た。助手席に座る中本さんに
「宮沢賢治が何度も詩に書いている-やなぎらん-が咲いていますね」
と、語りかける。後部に座る玉井さんも、道端に咲く「やなぎらん」を興味深そうに見ている。舗装されていない広い道は、車のが行き交うたびに土埃が舞い上がり、道端の花は埃だらけである。
この町の南端のジョンキエール岬に群生する「かんぞう」の黄色い花も魅力的だったが、道端に咲く紫色の「やなぎらん」は背の高い可憐な花である。
宮沢賢治は、大正12年の樺太へ旅で生まれた幾つもの詩に、この「やなぎらん」を繰り返し登場させている。
この紫色の北方的な花「やなぎらん」に、一人で旅する詩人の心は強く惹かれた。
そして、詩にその花の名を残した。私は、その花の姿をカメラに収めたかったが、目的地へ向かう運転手イワーノフさんに止まることをお願いすることは難しかった。
しばらくすると、中本さんは、実直そうな運転手イワーノフさんの語るこんなことを我々に告げた。
「彼は、以前は漁師だったそうです。それを止めて、今は市役所の運転手をやっている。自分では、日本のホンダの車に23年間も乗ってるのだそうです。丈夫で壊れない。日本に帰ったらホンダの社長によろしく言ってくれとのことです」
やせ形の運転手イワーノフさんは、後ろを振り返ると我々に向かって「そうなんだ」と言う風にして頷く。
しかし、このロシア製の車もいい。シンプルで、頑丈・・。手に入れられるものなら、北海道で手に入れて、自分の車として使いたいような気持さえした。
ここで、事件が起きた。テイモフスクの町へ入るために左折しようとした時、やってきた車が左折には邪魔だったので、運転手は本来ロシアでは、車は右側通行のところを、左車線に入ってそのT字路を通過しようとした。
なんと、その時出くわした車は、警察の車だった。外に出て、運転手イワーノフさんは、取り調べを受けている。
トマリの運転手ニコライさん、アレクサンドロフスクの郷土史家グリーゴーリーさん達は運転しながら「ウォッカ」を飲むお国柄である。左折車が、左車線に入ったくらいで警察が取り調べることなどある筈がないと思っていた。
しかし、こうして現実に交通違反として運転手イワーノフさんが捕まったところを見ると、ロシアにも取り締まりはあるらしい。
「ティモフスク」駅着8時。すでに何人もの客は、一時間後の夜行列車到着を待っている。
送ってくれた運転手イワーノフさんに手を振って別れると、4人で荷物を抱えてプラットホームへ向かう。今回の旅では、一番ひどい状態のトイレに入る。
中本さんと私は、駅前の売店でポテトチップなどの食料とビールなどを仕入れる。寝台列車の中で食べる食糧を買っていなかったのである。
その後、プラットホームで、午前中に訪ねたチェーホフ記念館館長のミロマーノフさんと出会う。穏やかな表情をした人である。今朝、チェーホフ記念館で詳しい説明を頂いたこと、また絵ハガキなどの資料を頂いたことへのお礼を言う。
彼は、アレクサンサンドロフスクから車で、親戚をここまで送りに来たらしい。
我々の乗り込む列車番号は1号車である。ミロマーノフさんに別れを告げると、荷物を担いで長いプラットホームを一番先まで歩く。夜行列車は全部で13号車という長い列車なので、こういうことになる。
穏やかな日差しがゆっくりと傾き始めている。昨日の今頃は、
「チェーホフの夕陽」
を、アレクサンドロフスクの海岸でのんびりと待っていたのだ。穏やかな晴天が続いている。
午後9時4分、夜行列車がティモフスク駅に到着する。切符を車掌に渡し、列車に乗り込む。昨晩の寝台が予約してあるという手違いがあったのだが、中本さんが既にユジノサハリンスクで発見して、旅行代理店で訂正していたので、大きな問題はない。ただし、このミスのために、我々4人が同じコンパートメントを使うことはできなくなった。
中本さんと高田さん、そして、玉井さんと私が組となる。我々の部屋には初老の夫婦が既に乗り込んでいた。彼らご夫妻と挨拶を交わす。優しそうな雰囲気の人たちである。
一方、中本、高田さんのコンパートメントには2歳くらいの女の子を連れた夫婦が同室となっている。我々が、彼らのコンパートメントを訪ねると
「ミロマーノフご夫妻です」
と、中本さんが紹介してくれる。
ミロマーノフ・・・。どこかで聞いたことがある。アレクサンドロフスクの「チェーホフ記念館」の館長さんと同姓である。中本さんの説明によると、夫の方が、チエーホフ記念館館長さんのミロマーノフさんの息子とのことだった。だから、先ほどのティモフスク駅へ、チェーホフ記念館館長のミロマーノフさんがいたのである。
それにしても、13両もある列車でチェーホフ記念館館長さんの息子さんと同室になるというのは、偶然にしても不思議なことである。
彼らご夫妻はウラジオストックに住んでいる。ユジノサハリンスクまで、我々と同行した後、飛行機でウラジオストックへ向かうとのことである。旦那さんの方は、お酒を飲まないそうだが、奥さんは強い。我々とともに酒盛りが始まった。
しばらくすると、車掌さんが食糧を売りにくる。インスタント・ラーメンがあるので、3人に食べるかどうかを聞くと、食べるという。結局、そのインスタント・ラーメンを買い、車掌質の前の給湯器からお湯を入れて食べた。
ロシア語で、何やら書いてあるが、味から言って日本から輸入した「インスタント・ラーメン」であるのは間違いない。夜行列車で食べたインスタント・ラーメン・・・。なかなか、おいしかったように思う。
夜が更けた。玉井さんと一緒に、今日最後の一服をしに、デッキの喫煙室へ向かう。
二人で、薄暗いデッキで立ち、煙草を吸いながら文学談義をする。
斎藤瀏が、軍人として樺太を訪れた時に詠われた歌のこと。彼の娘の史が84歳で出した
「秋天瑠璃」
という歌集の中の「北国回帰」で、遠い昭和初期の旭川時代を回想して詠んだ歌
「長髪の小熊秀雄が加わりて歌評はずみき ストーヴ燃えき」
のことなどを話す。十代の少女斎藤史に、旭川新聞記者でいまだ20代の青年だった小熊はどのように目に映ったのだろう。それが感じられる歌を、昭和が終わり、平成となった60年以上の歳月を経て晩年に詠った歌である。人にはどれだけの年月を経ても忘れられないことがある。
「そういえば、宮川さんは会津八一はお好きですか」
会津八一・・・。彼によって詠われた歌を求めて奈良へ幾度旅をしたことだろう。ついに玉井さんの口から、会津八一の名が出てきた。
「あのひらがなだけで詠われた彼の歌を求めて、昨年3月に奈良へ旅をしました。日本の歌人の中でも最も好きな人です」
「そうでしたか。私は、晩年の会津八一に会っています」
玉井さんの年齢ならば、会津八一に直接会うことも可能だったことだろう。
「どのような印象でしたか。写真で見るとなかなか難かしい人のような印象ですが」
「いやいや、優しい感じの人でした」
夜も12時近くなっている。深夜の寝台夜行列車は、南のユジノサハリンスクへと向かっている。
私は、こうして、サハリンの寝台夜行列車で玉井さんと二人で深夜に煙草を吸いながら文学談義をしたことを永遠に忘れないだろう。
アレクサンドロフスクの町を出るとき、道傍に北海道旭川周辺の郊外でも夏になると見かける
「やなぎらん」
の花を見た。助手席に座る中本さんに
「宮沢賢治が何度も詩に書いている-やなぎらん-が咲いていますね」
と、語りかける。後部に座る玉井さんも、道端に咲く「やなぎらん」を興味深そうに見ている。舗装されていない広い道は、車のが行き交うたびに土埃が舞い上がり、道端の花は埃だらけである。
この町の南端のジョンキエール岬に群生する「かんぞう」の黄色い花も魅力的だったが、道端に咲く紫色の「やなぎらん」は背の高い可憐な花である。
宮沢賢治は、大正12年の樺太へ旅で生まれた幾つもの詩に、この「やなぎらん」を繰り返し登場させている。
この紫色の北方的な花「やなぎらん」に、一人で旅する詩人の心は強く惹かれた。
そして、詩にその花の名を残した。私は、その花の姿をカメラに収めたかったが、目的地へ向かう運転手イワーノフさんに止まることをお願いすることは難しかった。
しばらくすると、中本さんは、実直そうな運転手イワーノフさんの語るこんなことを我々に告げた。
「彼は、以前は漁師だったそうです。それを止めて、今は市役所の運転手をやっている。自分では、日本のホンダの車に23年間も乗ってるのだそうです。丈夫で壊れない。日本に帰ったらホンダの社長によろしく言ってくれとのことです」
やせ形の運転手イワーノフさんは、後ろを振り返ると我々に向かって「そうなんだ」と言う風にして頷く。
しかし、このロシア製の車もいい。シンプルで、頑丈・・。手に入れられるものなら、北海道で手に入れて、自分の車として使いたいような気持さえした。
ここで、事件が起きた。テイモフスクの町へ入るために左折しようとした時、やってきた車が左折には邪魔だったので、運転手は本来ロシアでは、車は右側通行のところを、左車線に入ってそのT字路を通過しようとした。
なんと、その時出くわした車は、警察の車だった。外に出て、運転手イワーノフさんは、取り調べを受けている。
トマリの運転手ニコライさん、アレクサンドロフスクの郷土史家グリーゴーリーさん達は運転しながら「ウォッカ」を飲むお国柄である。左折車が、左車線に入ったくらいで警察が取り調べることなどある筈がないと思っていた。
しかし、こうして現実に交通違反として運転手イワーノフさんが捕まったところを見ると、ロシアにも取り締まりはあるらしい。
「ティモフスク」駅着8時。すでに何人もの客は、一時間後の夜行列車到着を待っている。
送ってくれた運転手イワーノフさんに手を振って別れると、4人で荷物を抱えてプラットホームへ向かう。今回の旅では、一番ひどい状態のトイレに入る。
中本さんと私は、駅前の売店でポテトチップなどの食料とビールなどを仕入れる。寝台列車の中で食べる食糧を買っていなかったのである。
その後、プラットホームで、午前中に訪ねたチェーホフ記念館館長のミロマーノフさんと出会う。穏やかな表情をした人である。今朝、チェーホフ記念館で詳しい説明を頂いたこと、また絵ハガキなどの資料を頂いたことへのお礼を言う。
彼は、アレクサンサンドロフスクから車で、親戚をここまで送りに来たらしい。
我々の乗り込む列車番号は1号車である。ミロマーノフさんに別れを告げると、荷物を担いで長いプラットホームを一番先まで歩く。夜行列車は全部で13号車という長い列車なので、こういうことになる。
穏やかな日差しがゆっくりと傾き始めている。昨日の今頃は、
「チェーホフの夕陽」
を、アレクサンドロフスクの海岸でのんびりと待っていたのだ。穏やかな晴天が続いている。
午後9時4分、夜行列車がティモフスク駅に到着する。切符を車掌に渡し、列車に乗り込む。昨晩の寝台が予約してあるという手違いがあったのだが、中本さんが既にユジノサハリンスクで発見して、旅行代理店で訂正していたので、大きな問題はない。ただし、このミスのために、我々4人が同じコンパートメントを使うことはできなくなった。
中本さんと高田さん、そして、玉井さんと私が組となる。我々の部屋には初老の夫婦が既に乗り込んでいた。彼らご夫妻と挨拶を交わす。優しそうな雰囲気の人たちである。
一方、中本、高田さんのコンパートメントには2歳くらいの女の子を連れた夫婦が同室となっている。我々が、彼らのコンパートメントを訪ねると
「ミロマーノフご夫妻です」
と、中本さんが紹介してくれる。
ミロマーノフ・・・。どこかで聞いたことがある。アレクサンドロフスクの「チェーホフ記念館」の館長さんと同姓である。中本さんの説明によると、夫の方が、チエーホフ記念館館長さんのミロマーノフさんの息子とのことだった。だから、先ほどのティモフスク駅へ、チェーホフ記念館館長のミロマーノフさんがいたのである。
それにしても、13両もある列車でチェーホフ記念館館長さんの息子さんと同室になるというのは、偶然にしても不思議なことである。
彼らご夫妻はウラジオストックに住んでいる。ユジノサハリンスクまで、我々と同行した後、飛行機でウラジオストックへ向かうとのことである。旦那さんの方は、お酒を飲まないそうだが、奥さんは強い。我々とともに酒盛りが始まった。
しばらくすると、車掌さんが食糧を売りにくる。インスタント・ラーメンがあるので、3人に食べるかどうかを聞くと、食べるという。結局、そのインスタント・ラーメンを買い、車掌質の前の給湯器からお湯を入れて食べた。
ロシア語で、何やら書いてあるが、味から言って日本から輸入した「インスタント・ラーメン」であるのは間違いない。夜行列車で食べたインスタント・ラーメン・・・。なかなか、おいしかったように思う。
夜が更けた。玉井さんと一緒に、今日最後の一服をしに、デッキの喫煙室へ向かう。
二人で、薄暗いデッキで立ち、煙草を吸いながら文学談義をする。
斎藤瀏が、軍人として樺太を訪れた時に詠われた歌のこと。彼の娘の史が84歳で出した
「秋天瑠璃」
という歌集の中の「北国回帰」で、遠い昭和初期の旭川時代を回想して詠んだ歌
「長髪の小熊秀雄が加わりて歌評はずみき ストーヴ燃えき」
のことなどを話す。十代の少女斎藤史に、旭川新聞記者でいまだ20代の青年だった小熊はどのように目に映ったのだろう。それが感じられる歌を、昭和が終わり、平成となった60年以上の歳月を経て晩年に詠った歌である。人にはどれだけの年月を経ても忘れられないことがある。
「そういえば、宮川さんは会津八一はお好きですか」
会津八一・・・。彼によって詠われた歌を求めて奈良へ幾度旅をしたことだろう。ついに玉井さんの口から、会津八一の名が出てきた。
「あのひらがなだけで詠われた彼の歌を求めて、昨年3月に奈良へ旅をしました。日本の歌人の中でも最も好きな人です」
「そうでしたか。私は、晩年の会津八一に会っています」
玉井さんの年齢ならば、会津八一に直接会うことも可能だったことだろう。
「どのような印象でしたか。写真で見るとなかなか難かしい人のような印象ですが」
「いやいや、優しい感じの人でした」
夜も12時近くなっている。深夜の寝台夜行列車は、南のユジノサハリンスクへと向かっている。
私は、こうして、サハリンの寝台夜行列車で玉井さんと二人で深夜に煙草を吸いながら文学談義をしたことを永遠に忘れないだろう。
2009年08月08日
サハリン島-詩人たちへの旅-18.ガスパージン・グリゴーリー
2009年7月14日、「三人兄弟岩ホテル」午後5時。
アレクサンドリフスクただ一つの、、海に浮かぶ最大の観光名所の名が付けられたホテルである。ここでは、ついに
「水がストップ」
し、お湯も出なかった。しかし、ロシアではよくあることらしい。ユジノサハリンスク、ホルムスクではこれを経験してこなかった。シャワーを浴び、体に石鹸が付いている時に、水がストップした時には、タオルで石鹸をぬぐい去った。日本で、このような経験をしたことはない。
「ロシアらしさの洗礼」
それこそが旅の恩恵である。
ロシア的と言えば、トイレの便器の蓋がない場所が多い。清潔なレストランでさえ、そういうことがある。理由はわからない。あの蓋だけを取り去って持ち帰っても、使うことは出来ないだろう。不可解なことを、追及しても、分からないことはある。
それは、我々という人間が、どこから来て、どこへ行こうとするのか、また、宇宙という広大なスペースは無限であるのか有限であるのか、さらには、神は存在するのかしないのかと言う問いに似ている。
ロシアらしさの洗礼と言えば、この地で出会った郷土史家「グリゴーリーさんは、まさにその言葉にぴったりの人だった。アレクサンドロフスクで、私が求めていた場所へと導いてくれた人、豪快にウオッカを飲み干す人、限りない優しさと知識に溢れた人、それが彼だった。
「達二さーん」
そう呼ぶと、グリゴーリーさんは、ドアを開けて部屋へ入ってきた。彼はたくさんの荷物を抱えている。その中の幾つかを取り出すと、我々4人に
「プレゼントです」
と、言って渡し始めた。
高田さんへは、昨日行った「ドゥーエ」で、乾杯の時に使った小型のステンレス製のグラス。4個組ワンセットである。この時、我々は、このステンレス製グラスが気に入り、どこかに売っていないかと聞いたのである。しかし、結局、町を歩いて、その様なものが売ってる雰囲気の店に幾つか入ったものの見つからなかった。
玉井さんへは、この地域の北方民族館関連の資料がまとめられた本、また中本さんにはドゥーエで乾杯しながら、グリゴーリーさんが説明しながら使った、二冊の本だった。
そして、彼は微笑みながら、私にも分厚い本を渡す。表紙には
「Lev Tolstoy」
というタイトルが書かれ、トルストイの青年時代の顔写真がある。
著者はシクロフスキー。つまり、トルストイの一生を描いた伝記である。本を開くと、冒頭にはトルストイの若き頃から老人までの写真、そして自筆原稿の写真が数多く掲載されている。さらに確認すると、この本はロシア語ではなく、英語だった。
グリゴーリーさんは、私が文学好きであること、ロシア語が出来ず英語は読めること、トルストイに関心があることを、昨日からの行動でしっかりと確認していたのだ。それは、高田さん、玉井さん、中本さんへのプレゼントにも、彼の確かな人物環視眼がよく表れている。
私は、すぐに表紙を開くと、ペンを差し出し、グリゴーリーさんにサインを書いてもらった。
ロシア語で書いている。読み取りが難しそうだが、この旅から日本へ帰ったら、すぐにロシア語の辞書を手に入れよう、そしてロシ語を学び、この次、グリゴーリーさんと会ったら、この本の感想をロシア語で伝えようと決心した。
プレゼントを頂くと、次には、私と彼との約束だった
「日本の徳利、盃に書かれた文字の解読」
に、とりかかかった。
グリゴーリーさんが持ってきた大きな箱を開けると、次々と、様々な色や形の徳利と盃がとりだされる。そして、厚いアルバムが取り出される。すでに撮影したそれぞれの徳利、盃の写真が貼られている。その横にスペースがあり、
「年代」
「作られた場所」
「人名」
「作られた目的」
などを、書き込む欄がある。
例えば、「明治37-8年」と言うのは、1904-5年、日露戦争、「凱旋」は、勝利記念、「退役」は、その人物が陸軍、あるいは海軍を辞めた記念、裏を見ると、作られた場所である「下呂」「本郷町」、制作にあたった陶器工場、漆制作所、記念した人物の陸軍、海軍の所属などが刻印されている。
中には、本居宣長の歌が書かれ、
「モトオリノリナガ」
その歌を見て、彼は作者の名を私に告げる。グリゴーリーさんは、日本語を読むことは出来ないにしても、日本へのかなりの知識と好奇心を持っていることは、明らかだった。
この辺境とも言えるアレクサンドロフスクで、日本でも見たことのない貴重な骨董の数々を見たこと、そしてそれを丹念に調査しようとするグリゴ-リーさんのような存在がいることに驚いた。
徳利、盃の解読作業を、英語で行ったのは、一時間あまりだった。午後6時30分、チエホーフ像の置かれているホテル前で、市長専用のロシア製ワンボックスカーに乗り込む。
昨日、早朝に夜行寝台列車で着いた
「ティモフスク」
へ、向いまた夜行列車で
「ユジノサハリンスク」
へ、向うのである。グリゴーリーさんとの別れが来た。
「アレクサンドロフスクでは、短いけれど、とても、楽しい時間を過ごせました。すべては、グリゴ-リーさん、あなたのおがげです。また是非、日本で、或いは、ここアレクサンドロフスクで会いましょう、ガスパーチン・グリゴ-リー」
と、最後に英語で伝えた。
「ガスパーチン」
とは、「~さん」という意味である。本来は、「ガスパーチン」を彼の正式名「グリゴーリー・ニコライビッチ・スミカーロフ」と言うべきだったのであるが、このすべてを正確に発音できるはずがない。
最後に
「スパシーバ」
と言うと、彼はニコッと笑った。
アレクサンドリフスクただ一つの、、海に浮かぶ最大の観光名所の名が付けられたホテルである。ここでは、ついに
「水がストップ」
し、お湯も出なかった。しかし、ロシアではよくあることらしい。ユジノサハリンスク、ホルムスクではこれを経験してこなかった。シャワーを浴び、体に石鹸が付いている時に、水がストップした時には、タオルで石鹸をぬぐい去った。日本で、このような経験をしたことはない。
「ロシアらしさの洗礼」
それこそが旅の恩恵である。
ロシア的と言えば、トイレの便器の蓋がない場所が多い。清潔なレストランでさえ、そういうことがある。理由はわからない。あの蓋だけを取り去って持ち帰っても、使うことは出来ないだろう。不可解なことを、追及しても、分からないことはある。
それは、我々という人間が、どこから来て、どこへ行こうとするのか、また、宇宙という広大なスペースは無限であるのか有限であるのか、さらには、神は存在するのかしないのかと言う問いに似ている。
ロシアらしさの洗礼と言えば、この地で出会った郷土史家「グリゴーリーさんは、まさにその言葉にぴったりの人だった。アレクサンドロフスクで、私が求めていた場所へと導いてくれた人、豪快にウオッカを飲み干す人、限りない優しさと知識に溢れた人、それが彼だった。
「達二さーん」
そう呼ぶと、グリゴーリーさんは、ドアを開けて部屋へ入ってきた。彼はたくさんの荷物を抱えている。その中の幾つかを取り出すと、我々4人に
「プレゼントです」
と、言って渡し始めた。
高田さんへは、昨日行った「ドゥーエ」で、乾杯の時に使った小型のステンレス製のグラス。4個組ワンセットである。この時、我々は、このステンレス製グラスが気に入り、どこかに売っていないかと聞いたのである。しかし、結局、町を歩いて、その様なものが売ってる雰囲気の店に幾つか入ったものの見つからなかった。
玉井さんへは、この地域の北方民族館関連の資料がまとめられた本、また中本さんにはドゥーエで乾杯しながら、グリゴーリーさんが説明しながら使った、二冊の本だった。
そして、彼は微笑みながら、私にも分厚い本を渡す。表紙には
「Lev Tolstoy」
というタイトルが書かれ、トルストイの青年時代の顔写真がある。
著者はシクロフスキー。つまり、トルストイの一生を描いた伝記である。本を開くと、冒頭にはトルストイの若き頃から老人までの写真、そして自筆原稿の写真が数多く掲載されている。さらに確認すると、この本はロシア語ではなく、英語だった。
グリゴーリーさんは、私が文学好きであること、ロシア語が出来ず英語は読めること、トルストイに関心があることを、昨日からの行動でしっかりと確認していたのだ。それは、高田さん、玉井さん、中本さんへのプレゼントにも、彼の確かな人物環視眼がよく表れている。
私は、すぐに表紙を開くと、ペンを差し出し、グリゴーリーさんにサインを書いてもらった。
ロシア語で書いている。読み取りが難しそうだが、この旅から日本へ帰ったら、すぐにロシア語の辞書を手に入れよう、そしてロシ語を学び、この次、グリゴーリーさんと会ったら、この本の感想をロシア語で伝えようと決心した。
プレゼントを頂くと、次には、私と彼との約束だった
「日本の徳利、盃に書かれた文字の解読」
に、とりかかかった。
グリゴーリーさんが持ってきた大きな箱を開けると、次々と、様々な色や形の徳利と盃がとりだされる。そして、厚いアルバムが取り出される。すでに撮影したそれぞれの徳利、盃の写真が貼られている。その横にスペースがあり、
「年代」
「作られた場所」
「人名」
「作られた目的」
などを、書き込む欄がある。
例えば、「明治37-8年」と言うのは、1904-5年、日露戦争、「凱旋」は、勝利記念、「退役」は、その人物が陸軍、あるいは海軍を辞めた記念、裏を見ると、作られた場所である「下呂」「本郷町」、制作にあたった陶器工場、漆制作所、記念した人物の陸軍、海軍の所属などが刻印されている。
中には、本居宣長の歌が書かれ、
「モトオリノリナガ」
その歌を見て、彼は作者の名を私に告げる。グリゴーリーさんは、日本語を読むことは出来ないにしても、日本へのかなりの知識と好奇心を持っていることは、明らかだった。
この辺境とも言えるアレクサンドロフスクで、日本でも見たことのない貴重な骨董の数々を見たこと、そしてそれを丹念に調査しようとするグリゴ-リーさんのような存在がいることに驚いた。
徳利、盃の解読作業を、英語で行ったのは、一時間あまりだった。午後6時30分、チエホーフ像の置かれているホテル前で、市長専用のロシア製ワンボックスカーに乗り込む。
昨日、早朝に夜行寝台列車で着いた
「ティモフスク」
へ、向いまた夜行列車で
「ユジノサハリンスク」
へ、向うのである。グリゴーリーさんとの別れが来た。
「アレクサンドロフスクでは、短いけれど、とても、楽しい時間を過ごせました。すべては、グリゴ-リーさん、あなたのおがげです。また是非、日本で、或いは、ここアレクサンドロフスクで会いましょう、ガスパーチン・グリゴ-リー」
と、最後に英語で伝えた。
「ガスパーチン」
とは、「~さん」という意味である。本来は、「ガスパーチン」を彼の正式名「グリゴーリー・ニコライビッチ・スミカーロフ」と言うべきだったのであるが、このすべてを正確に発音できるはずがない。
最後に
「スパシーバ」
と言うと、彼はニコッと笑った。
2009年08月07日
サハリン島-詩人たちへの旅- 17.時をつなぐ鎖
2009年7月13日、午後9時30分、アレクサンドロフスフの間宮海峡の海の彼方に完全に夕陽が落ちた。
郷土史家グリゴーリーーさんが、我々四人の旅人に、どうしても見せたいと言った夕陽。照り返しの鮮やかな色彩が、空と海を染める。
1890年7月、シベリアを越えて9000キロの旅の果てに、このサハリン島アレクサンドロフスクをチェーホフが訪れた。この時、我々が立ったと同じアレクサンドロフスクの海岸から、若き30歳の青年作家チェーホフは三人兄弟の岩のシルエットを前面に置いた構図の夏の海に落ちる
「夕陽」
を見た筈である。
私が、名付けた「チェーホフの夕陽」から119年を経ている。しかし、アレクサンドロフスクの海の光景は、遮るものは何一つなく、チエーホフの見た光景と全く変わらない。
私の心に焼きついたアレクサンドロフスクの
「チエーホフの夕陽」
を、私は永遠に忘れることはないだろう。
午後10時になろうとしている。再び、グリゴーリーさんの車に乗った我々は、アレクサンドロフスクの町へ向かう。
昼飯を食べたレストランへ向かう。しかし、シャッターが閉じている。午後十時は、アレクサンドロフスクのレストランの営業時間ではない。
グリゴーリーさんが知っている、近くの別のレストランへ向かうが、同じくそこも閉じている。もちろん、アレクサンドロフスクに、日本のコンビニのような24時間営業の店などがあるはずがない。
車を走らせても、スーパー・マーケットや個人営業の店も主なところはすべて閉じている。ホテルのレストランももちろん閉じている。
高田さんが
「きれいな夕陽を見た代償として、今晩は、我々はアルコールと夕飯は抜きですかなあ」
と、言った。まあ、それも仕方がないかなと、私が思った瞬間、グリゴーリーさんが車を止めて、ニコッとして電気の付いた小さな食料品店を指さす。午後10時を過ぎ、暗くなって来ているが、開いている店があったのだ。
ビール、ジュース、チーズ、黒パン、ソーセージ・・・。あまり、豊かなメニューとは言えない。しかも、店主の女性、店員の若い女の子も全くやる気のない雰囲気の店である。しかし、とにかく、食糧が手に入った。幸運としか言いようがない。
私は、買い物の中に、そろそろ切れている筈の玉井さんの煙草を二箱ほど追加しておいた。銘柄はマルボーロとキャメルである。キャメルは、かつて私が煙草を吸っていた時に、好んでいた味の煙草である。
支払いの時、ルーブルの端数のコインが必要なとき、グリゴーリーさんがポケットに手を入れると素早くコインを取り出して店の人に差し出す。日本円にして何十円、何円にしかならない値段だろうが、外国人の我々が困らないようにと言う配慮だと思う。
このことは、ホテルの支払い、レストランの支払いの時にも、密かにグリゴーリーさんの手で行われていた。
たいした値段ではないかもしれない。我々は彼に食事を御馳走したり、日本から持ってきたお土産を渡してもいる。しかし、やれそうでやれない心遣いを、彼は、目立たないところで実行する人である。
私の中では、ロシア人の頑ななイメージが、グリゴーリーさんによって、大幅に変わってきている。
グリゴーリーさんは、我々をホテルへ送ると家へ帰った。
4階のホテルの一室で、我々4人の晩餐が始まる。
まず、ビールで乾杯。私も、今晩はもう寝るだけだから、酒豪たちに加わってビールを飲む。ロシアのビールの味に慣れてきて、なかなかおいしいと思った。
中本さんが、飲みながら、我々にこんなことを言った。
「現在のロシア人は、自分の国を、もう
-ソビェト-
とは呼ばない。ロシアと呼んでいる。つまり、昔のロシア帝国が復活したようなものですね。現在は、昔と違って皇帝がいないだけです」
私は、ソビェトという国名の響きを好まない。どこか、革命後の冷たい官僚主義、スターリン独裁の匂いを感じるのだ。ロシアという呼称の響きには、かつての農奴制、皇帝支配の匂いが付きまとうのかもしれないが、この広大な大地を持つ国の名としては
「ロシア」
が一番ふさわしいと思う。もちろん、帝政の終焉後の意味合いに於いての「ロシア」である。
またさらに、中本さんは、
「チェーホフは、
-世紀末のたそがれ詩人-
と言われるけれど、実際は酒とジョークが大好きな明るい性格の持ち主だった」
と、語る。
我々が、チェーホフをイメージする時、晩年の柄付眼鏡(ロールネット)を掛け、髭を蓄えた小柄な初老の男というイメージが付きまとう。しかし、彼を調査すると、180cmを超える大柄な体格、若き頃の端正な風貌、ユーモアに満ちた性格が浮かび上がる。
まさに、中本さんの語るユーモアに満ちた明るいチェーホフこそ、彼の実像そのものではないかと思う。
私が、長い間好んできた短編に
「大学生」
という作品がある。ロシアの田舎で、ある大学生が焚き火を見つめ、キリストを深く愛しながら
「私はあの人を知らない」
と、語って裏切った千九百年前のペテロの心を想う。そして、この時の流れを、チェーホフはこう表現する。
「過去は、-と彼は考えた-一つ一つと流れ出すぶっつづきの事件の鎖によって、現在と結びついているのだ。そして、彼は、たった今じぶんがこの鎖の両端を見たような気がした。-一方の端に触れたら、もう一方の端がぴくりとふるえたような気がした」
119年前に、チェーホフが訪れたアレクサンドロフスクで、旅の途中の4人の男がチェーホフを語る・・。この時に、過去と現在を結ぶ鎖が、チェホフと我々を結ぶ鎖がぴくりと震える・・。そんな想像をして、私は、こころが泣き叫びたいような感覚にとらわれる。
皆さんに、この「大学生」の話をすると、玉井さんが
「宮川さん、-グーセフ-は読みましたか?」
と、聞く。私は、中央公論社発行の愛すべき小型のチェーホフ全集を持っている。しかし、全部を読みつくしたわけではない。
「読んでいませんね」
そう答えると、玉井さんは
「それじゃ、お貸ししましょう」
と言って、古い岩波文庫を差し出した。タイトルの「シベリアの旅」という字が、右から左へと印刷されている。ぼろぼろだが、大正生まれの玉井さんが愛読してきた貴重な本である。何と昭和9年発行の文庫である。訳者は神西清、楽しみになってきた。
ビールの瓶が、次々と空になる。たくさんは飲めない私が、ビール瓶のラベルを見ると
「0%ビール」
と書いてあるのを発見した。まさか、と思った。日本ではよくあることだが、ロシアにノン・アルコール・ビールなど売っているはずがない。
高田さんに、そのことを告げると
「そんなことある筈がないよ」
と言う。もっともである。中本さんが、空のビール瓶を持ち上げる。彼が、ロシア語のラベルをじっくりと読むと
「これは、宮川さんが言うように、ノン・アルコール・ビールだよ」
と、我々に告げる。玉井さんを含めて、全員で大笑いとなる。
酒に弱い私が気がつかないのは当たり前である。しかし、特別に酒に強い3人が、全く気がつかないで「ノン・アルコール・ビール」で酔いしれていたのだ。こうして、アレクサンドロフスクの第一夜は、終わった。
2009年7月14日。晴れ。ホテルでの朝食は御粥と、本物のコーヒーである。お粥は、色は黄色。やや甘い。しかし、ロシアで御粥もなかなかいいものである。
午前9時30分、迎えに来ていただいたグリゴーリーさんと町の展望台へ行った後、待望の
「チェーホフ記念館」
を訪ねた。
中本さん旧知の館長ミロマーノフさんが我々を迎えてくれる。丸太材を組み合わせたロシア風の素朴な建物である。1890年にチェーホフが実際に休んだランズベルク商店をそのまま使っている。
展示品は、「サハリン島」の初版本、旅行中に使ったスプーンティーカップ、革のコート、旅行カバン、肖像画など373点に及んでいる。当時のアレクサンドロフスクの写真や、チェーホフが親類に打った直筆の電報や手紙なども非常に面白い。すべてを、館長ミロマーノフさんが細かに説明して下さる。
驚いたのは、アレクサンドロフスクを去る時、チェーホフは大きな木箱36個を船に持ち込み、そのすべてを持ち帰ったという事実である。写真、流刑者へにインタビューを書きこんだ一万枚のカード・・・。それにしても、36個の木箱が一人の男の旅の荷物として想像できるだろうか。
その後、グリゴ-リーさんが常駐するアレクサンドロフスク図書館へ行く。彼の専用オフィスで、彼の日本への旅の写真や、郷土史研究の成果を見せて頂く。
また、チエーホフの肖像写真、日本の女優吉永小百合に似たロシア人女性の肖像写真、十字架、コンピューター、日本の古い柱時計などもある。
グルゴーリーさんは、好奇心が旺盛で、しかも丹念に調査しその成果をしっかりとまとめている人だった。
図書館の廊下の展示には、日本関連の間宮林蔵、岡田嘉子、杉本良吉関連の写真が貼られ、アイヌ、ギリヤークなどの北方民族関連の展示も充実している。
午後2時、昨日に続き、再び「ピヨルパー」、つまり「真珠」という名のレストランへ行った。どうやら、アレクサンドロフスクでまともなレストランはここしかないのだった。
昼食は、全員の合意で韓国料理にした。ビール、ジュースに加えて、韓国風スープ、キムチ、サラダ、ライスというものだ。スープは日本で食べているもののと、やや、味が違うが、独特のものでありこれが本場の味かもしれない。
午後3時30分、ホテルへ戻る。帰り際、グリゴーリーさんが私に
「何時まで休む必要があるか?」
と、聞く。
「5時まで」
と、答えると、
「わかった。では5時に、ホテルへ来る。皆さんがアレクサンドロフスクへ行く前に、達二さんにやって欲しいことがある」
と、彼は語る。つまり、私が書道の専門家であることを彼は知っている。だから、彼がたくさん持っている
「日本の徳利、盃などの骨董品」
に書かれている漢字が
「何の記念で作られたものか」
「作られた年、月日」
「場所」
を読んで解読してほしいというのだ。もちろんすべて英語で話すことになる。どうにかなるだろう。彼のためなら、何でも引き受けるしかない。
郷土史家グリゴーリーーさんが、我々四人の旅人に、どうしても見せたいと言った夕陽。照り返しの鮮やかな色彩が、空と海を染める。
1890年7月、シベリアを越えて9000キロの旅の果てに、このサハリン島アレクサンドロフスクをチェーホフが訪れた。この時、我々が立ったと同じアレクサンドロフスクの海岸から、若き30歳の青年作家チェーホフは三人兄弟の岩のシルエットを前面に置いた構図の夏の海に落ちる
「夕陽」
を見た筈である。
私が、名付けた「チェーホフの夕陽」から119年を経ている。しかし、アレクサンドロフスクの海の光景は、遮るものは何一つなく、チエーホフの見た光景と全く変わらない。
私の心に焼きついたアレクサンドロフスクの
「チエーホフの夕陽」
を、私は永遠に忘れることはないだろう。
午後10時になろうとしている。再び、グリゴーリーさんの車に乗った我々は、アレクサンドロフスクの町へ向かう。
昼飯を食べたレストランへ向かう。しかし、シャッターが閉じている。午後十時は、アレクサンドロフスクのレストランの営業時間ではない。
グリゴーリーさんが知っている、近くの別のレストランへ向かうが、同じくそこも閉じている。もちろん、アレクサンドロフスクに、日本のコンビニのような24時間営業の店などがあるはずがない。
車を走らせても、スーパー・マーケットや個人営業の店も主なところはすべて閉じている。ホテルのレストランももちろん閉じている。
高田さんが
「きれいな夕陽を見た代償として、今晩は、我々はアルコールと夕飯は抜きですかなあ」
と、言った。まあ、それも仕方がないかなと、私が思った瞬間、グリゴーリーさんが車を止めて、ニコッとして電気の付いた小さな食料品店を指さす。午後10時を過ぎ、暗くなって来ているが、開いている店があったのだ。
ビール、ジュース、チーズ、黒パン、ソーセージ・・・。あまり、豊かなメニューとは言えない。しかも、店主の女性、店員の若い女の子も全くやる気のない雰囲気の店である。しかし、とにかく、食糧が手に入った。幸運としか言いようがない。
私は、買い物の中に、そろそろ切れている筈の玉井さんの煙草を二箱ほど追加しておいた。銘柄はマルボーロとキャメルである。キャメルは、かつて私が煙草を吸っていた時に、好んでいた味の煙草である。
支払いの時、ルーブルの端数のコインが必要なとき、グリゴーリーさんがポケットに手を入れると素早くコインを取り出して店の人に差し出す。日本円にして何十円、何円にしかならない値段だろうが、外国人の我々が困らないようにと言う配慮だと思う。
このことは、ホテルの支払い、レストランの支払いの時にも、密かにグリゴーリーさんの手で行われていた。
たいした値段ではないかもしれない。我々は彼に食事を御馳走したり、日本から持ってきたお土産を渡してもいる。しかし、やれそうでやれない心遣いを、彼は、目立たないところで実行する人である。
私の中では、ロシア人の頑ななイメージが、グリゴーリーさんによって、大幅に変わってきている。
グリゴーリーさんは、我々をホテルへ送ると家へ帰った。
4階のホテルの一室で、我々4人の晩餐が始まる。
まず、ビールで乾杯。私も、今晩はもう寝るだけだから、酒豪たちに加わってビールを飲む。ロシアのビールの味に慣れてきて、なかなかおいしいと思った。
中本さんが、飲みながら、我々にこんなことを言った。
「現在のロシア人は、自分の国を、もう
-ソビェト-
とは呼ばない。ロシアと呼んでいる。つまり、昔のロシア帝国が復活したようなものですね。現在は、昔と違って皇帝がいないだけです」
私は、ソビェトという国名の響きを好まない。どこか、革命後の冷たい官僚主義、スターリン独裁の匂いを感じるのだ。ロシアという呼称の響きには、かつての農奴制、皇帝支配の匂いが付きまとうのかもしれないが、この広大な大地を持つ国の名としては
「ロシア」
が一番ふさわしいと思う。もちろん、帝政の終焉後の意味合いに於いての「ロシア」である。
またさらに、中本さんは、
「チェーホフは、
-世紀末のたそがれ詩人-
と言われるけれど、実際は酒とジョークが大好きな明るい性格の持ち主だった」
と、語る。
我々が、チェーホフをイメージする時、晩年の柄付眼鏡(ロールネット)を掛け、髭を蓄えた小柄な初老の男というイメージが付きまとう。しかし、彼を調査すると、180cmを超える大柄な体格、若き頃の端正な風貌、ユーモアに満ちた性格が浮かび上がる。
まさに、中本さんの語るユーモアに満ちた明るいチェーホフこそ、彼の実像そのものではないかと思う。
私が、長い間好んできた短編に
「大学生」
という作品がある。ロシアの田舎で、ある大学生が焚き火を見つめ、キリストを深く愛しながら
「私はあの人を知らない」
と、語って裏切った千九百年前のペテロの心を想う。そして、この時の流れを、チェーホフはこう表現する。
「過去は、-と彼は考えた-一つ一つと流れ出すぶっつづきの事件の鎖によって、現在と結びついているのだ。そして、彼は、たった今じぶんがこの鎖の両端を見たような気がした。-一方の端に触れたら、もう一方の端がぴくりとふるえたような気がした」
119年前に、チェーホフが訪れたアレクサンドロフスクで、旅の途中の4人の男がチェーホフを語る・・。この時に、過去と現在を結ぶ鎖が、チェホフと我々を結ぶ鎖がぴくりと震える・・。そんな想像をして、私は、こころが泣き叫びたいような感覚にとらわれる。
皆さんに、この「大学生」の話をすると、玉井さんが
「宮川さん、-グーセフ-は読みましたか?」
と、聞く。私は、中央公論社発行の愛すべき小型のチェーホフ全集を持っている。しかし、全部を読みつくしたわけではない。
「読んでいませんね」
そう答えると、玉井さんは
「それじゃ、お貸ししましょう」
と言って、古い岩波文庫を差し出した。タイトルの「シベリアの旅」という字が、右から左へと印刷されている。ぼろぼろだが、大正生まれの玉井さんが愛読してきた貴重な本である。何と昭和9年発行の文庫である。訳者は神西清、楽しみになってきた。
ビールの瓶が、次々と空になる。たくさんは飲めない私が、ビール瓶のラベルを見ると
「0%ビール」
と書いてあるのを発見した。まさか、と思った。日本ではよくあることだが、ロシアにノン・アルコール・ビールなど売っているはずがない。
高田さんに、そのことを告げると
「そんなことある筈がないよ」
と言う。もっともである。中本さんが、空のビール瓶を持ち上げる。彼が、ロシア語のラベルをじっくりと読むと
「これは、宮川さんが言うように、ノン・アルコール・ビールだよ」
と、我々に告げる。玉井さんを含めて、全員で大笑いとなる。
酒に弱い私が気がつかないのは当たり前である。しかし、特別に酒に強い3人が、全く気がつかないで「ノン・アルコール・ビール」で酔いしれていたのだ。こうして、アレクサンドロフスクの第一夜は、終わった。
2009年7月14日。晴れ。ホテルでの朝食は御粥と、本物のコーヒーである。お粥は、色は黄色。やや甘い。しかし、ロシアで御粥もなかなかいいものである。
午前9時30分、迎えに来ていただいたグリゴーリーさんと町の展望台へ行った後、待望の
「チェーホフ記念館」
を訪ねた。
中本さん旧知の館長ミロマーノフさんが我々を迎えてくれる。丸太材を組み合わせたロシア風の素朴な建物である。1890年にチェーホフが実際に休んだランズベルク商店をそのまま使っている。
展示品は、「サハリン島」の初版本、旅行中に使ったスプーンティーカップ、革のコート、旅行カバン、肖像画など373点に及んでいる。当時のアレクサンドロフスクの写真や、チェーホフが親類に打った直筆の電報や手紙なども非常に面白い。すべてを、館長ミロマーノフさんが細かに説明して下さる。
驚いたのは、アレクサンドロフスクを去る時、チェーホフは大きな木箱36個を船に持ち込み、そのすべてを持ち帰ったという事実である。写真、流刑者へにインタビューを書きこんだ一万枚のカード・・・。それにしても、36個の木箱が一人の男の旅の荷物として想像できるだろうか。
その後、グリゴ-リーさんが常駐するアレクサンドロフスク図書館へ行く。彼の専用オフィスで、彼の日本への旅の写真や、郷土史研究の成果を見せて頂く。
また、チエーホフの肖像写真、日本の女優吉永小百合に似たロシア人女性の肖像写真、十字架、コンピューター、日本の古い柱時計などもある。
グルゴーリーさんは、好奇心が旺盛で、しかも丹念に調査しその成果をしっかりとまとめている人だった。
図書館の廊下の展示には、日本関連の間宮林蔵、岡田嘉子、杉本良吉関連の写真が貼られ、アイヌ、ギリヤークなどの北方民族関連の展示も充実している。
午後2時、昨日に続き、再び「ピヨルパー」、つまり「真珠」という名のレストランへ行った。どうやら、アレクサンドロフスクでまともなレストランはここしかないのだった。
昼食は、全員の合意で韓国料理にした。ビール、ジュースに加えて、韓国風スープ、キムチ、サラダ、ライスというものだ。スープは日本で食べているもののと、やや、味が違うが、独特のものでありこれが本場の味かもしれない。
午後3時30分、ホテルへ戻る。帰り際、グリゴーリーさんが私に
「何時まで休む必要があるか?」
と、聞く。
「5時まで」
と、答えると、
「わかった。では5時に、ホテルへ来る。皆さんがアレクサンドロフスクへ行く前に、達二さんにやって欲しいことがある」
と、彼は語る。つまり、私が書道の専門家であることを彼は知っている。だから、彼がたくさん持っている
「日本の徳利、盃などの骨董品」
に書かれている漢字が
「何の記念で作られたものか」
「作られた年、月日」
「場所」
を読んで解読してほしいというのだ。もちろんすべて英語で話すことになる。どうにかなるだろう。彼のためなら、何でも引き受けるしかない。
2009年08月06日
サハリン島-詩人たちへの旅-16.チェーホフの夕陽
2009年7月13日午後6時、グリゴーリーさんに連れられ我々4人はアレクサンドロフスク港埠頭に来ている。
グリゴーリーさんが車を止めた場所は、軍事施設らしい。門が閉まり、検問所には軍人が数人いる。
軍人たちは、郷土史家グリゴーリーさんとは顔なじみであり、外国人である我々4人が顔を見せても特に緊張した様子はない。
門の横に、チェーホフが1890年7月11日にアレクサンドロフスク港に到着したということが記された小さなプレートが掲げられている。中本さんは、それを訳して我々に教えてくださる。
そのプレートによると、どうやら、チェーホフがアレクサンドロフスクに到着した119年前の7月11日は、ロシアの旧暦の日付らしい。つまり、現在の日付で言うと10日あまり遅いことになるらしい、
しかし、10日ほどの違いは、左程重要なことではない。既に、ロシア文壇にデビューし、人気作家であったチェーホフが、9000キロの距離のシベリアを越え、二か月の苛酷な旅に出て、サハリンへやってきたという事実が我々にとって大切なのだ。
遥かなる シベリア越えて 着きし海 君が姿を 想う桟橋
追憶の 詩人の往きし 埠頭には 煙たなびき かもめ飛び交う
ふとそんな歌が、私のこころに浮かんだ。30歳のチェーホフは、サハリン行きに関しては文献を読み込み、周到な準備をしたようだ。しかし、本人はその頃に喀血し、周囲の人間は何故このような最果ての地を訪れるのかを疑問に思った。
チェーホフは医者でもあり、客観的な判断を下せば、若き青年とはいえ病身のチェーホフには危険な旅だった。
後世の作家たちも、このサハリンへの旅には同じような疑問を持ち、多くの人がこの件に関して言及している。つまり、文学的目的もなく、病身を押してまで、チェーホフは何故サハリンへ行ったのかということである。
私が読んだだけでも、旭季彦、佐々木基一、湯浅芳子、中村融というロシア文学の研究者、そして今目の前にいる中本信幸さんが著書でこの件に触れている。
私がこの旅に出る直前に読んだものでは、作家高見順が書いた
「チェーホフは何故サガレンへ行ったか」
という文章が心に残っている。この高見順の文章は、最後が、如何にも文士としての姿勢を貫いた彼らしい次の言葉で締めくくられている。
「チェーホフの問題は、私自身の問題である。私たちの問題である」
作家として、人間としてのチェーホフに対する姿勢は、高見順のこの言葉に尽きる。
敢えて私が、
「アレクサンドロフスクに来た理由」
を探してみると、まさに高見順が残したこの一言に尽きる。
車で港の軍の施設の横を通り抜けて、砂浜の海岸へ出た。固く閉まった砂浜を「いすゞミュー」は難なく走り抜けて行く。海岸線の南にはジョンキエール岬、海の上には、先ほどそこから見下ろした
「三人兄弟の岩」
が、浮かんでいる。
チェーホフは、「サハリン島」で、この沖に着いた時のこの周囲の海の印象を次のように書いている。
「右手にはクリミアのアユ・ダーク山に似たジョンキエール岬が、黒々とした重々しい塊となって海に突き出ている。その頂上には灯台があかあかと輝いて、下のほう、海面の、われわれと岸辺との間には、「三人兄弟」という名の三つの岩が突っ立ている。しかも、それらすべてが、まるで地獄のように煙につつまれているのだ」
グリゴーリーさんが、ジョンキエール岬で
「どうしても、海に落ちゆく夕陽を見せたい」
と、我々に伝えた理由がよく分かった。つまり、ここで見る夕陽は
「チェーホフの夕陽」
なのである。
これ以上は進められない最終地点へ車を置くと、我々はグリゴーリーさんの後に付いて海岸を歩く。海岸に沿った岸壁がそそり立ち、時々、石炭の黒い層が剥き出しになっている。
玉井さんと、高田さんはさすがに疲れたらしく、途中で諦め後方の海岸の石に腰かけている。無理はしない方がいい。
中本さんは、疲れを知らない。グリゴーリーさんと地形、自然、歴史、文学の話をしながら、海へ突き出たジョンキエール岬へどんどん進んで行く。チェーホフへの情熱、ロシア的なものへの尽きることのない好奇心・・。私は、この旅で彼から学んだものは大きい。
冷静な知性の内に秘めた燃えるような情熱、この旅で中本さんに感じることはこれだった。それが、サハリンで最もチェーホフと因縁の深いアレクサンドロフスクで、さらに燃え上っている。
ゴロゴロとしている石の中には、貝の化石がある。郷土史家グレゴーリーさんは、このような自然の残した化石にも関心が深い。柔らかな彼の感性は、守備範囲を郷土史に止まらせることはない。
我々は、アレクサンドロフスクで、これ以上は望めないギリゴーリーさんという素晴らしい案内人を得たのだ。
しばらく行くと、チェーホフも歩いたという、ジョンキエール岬の直下を南側へ貫通する坑道へ入った。19世紀から20世紀にかけて石炭を運搬する線路が、突き抜けた南側から、我々が立ち寄った港まで敷かれて、その上をトロッコが走っていた。
坑道の中は人が立っても十分な高さと横幅がある。さらに進むと真っ暗な坑道の向こうに、光射す出口が見えていくる。
ジョンキエール岬を通り抜けて出口に着いた。南へ続く海岸線が、光に照らされキラキラと輝いている。
つい一時間ほど前に行った、萱草(きすげ)の群生していた急な崖の斜面の上を見上げる。
数人の人々が夏ののんびりした時間を過ごしている。奇岩の上に立ってポーズする野球帽子をかぶった少年を撮影する。落ちゆく太陽の逆行の光が、少年背後から射している。
しばらくして、、グリゴーリーさん、中本さん、そして私の3人は坑道に戻って通り抜け、車を止めた地点へ戻った。
待てども、待てども、夏の太陽は落ちない。ゆるやかにカーブを描いて太陽が落ちゆく地点を想像しながら、私は、最終撮影地点を探す。微妙なずれが、今日最後の頂点を示す夕陽の写真の構図を狂わせるのだ。
ビデオの撮影をしている高田さんも、夕陽が落ちて行く地点を探して移動している。私よりは、北側の地点に彼は腰をおろした。
私の目の前の海岸線を歩く家族、肩車する父と子、犬を散歩させる女性、一人佇む男のシルエットを撮影する。私は、日本では人物を撮影することはほとんどないのだが、サハリンへ来てから、私の被写体は人物がかなりの割合を占めている。
「こんにちは・・・・」
突然、撮影している私に日本語で語りかける人がいる。海水パンツ一つで、にこやかな笑顔の中年男性である。
中本さんに通訳してもらうと、石油関連のプロジェクトで働いている人で、仕事で日本人と付き合いがあり、非常に親近感を持っているとの事だった。
夜行寝台列車では、深夜に
「おはようございます」
と挨拶をされたばかりだが、アレクサンドロフスクの海岸で「こんにちは」と挨拶されるとは思っていなかった。彼は中本さんとしばらくの間、夕陽に照らされながら話をしていた。
「三兄弟の岩」に接近した太陽が、少しづつ傾いてきた。
「三兄弟の岩」とは、ヘングという三兄弟が、熊と、浜に打ち上げられた鯨を見に行った時に、この三つの岩を発見したというのでこの名が付けられたということだ。日本でも、このような名の付け方はよくあることだが、ロシアでも事情は同じことだった。
午後9時、この海岸へ着いてから約3時間が経過したときに、三兄弟岩の一番右の岩の横に陽が沈んでゆく。
私は、心を落ち着かせて、ゆっくりと、カメラのシャッターを押し続ける。
チエーホフも、1890年夏、ちょうど同じような時間に此処に佇み、夕陽の落ちゆく姿を眺めたに違いない。私は、この光景を「アレクサンドロフスクの夕陽」でも「三兄弟の岩の夕陽」でもなく、いまだ青春の途上にアレクサンドロフスクを訪れたアントン・チェーホフに敬意を表して
「チェーホフの夕陽」
と、名付けた。
間宮海峡の遥かな水平線に、三兄弟の岩をシルエットにした夕陽が落ちてゆく。あの水平線の向こうにはシベリアから広大なロシア本土が続いている。
今まで、私は、繰り返し海に落ちゆく夕陽を撮影して来たが、これほど長時間に渉って夕陽を待った経験はない。
私という小さな存在を遥かに越えて、過去から現在に至るまで幾度となく繰り返される宇宙の営みを、アレクサンドロフスクで見られたという至福の想いが心を過ぎる。
海の夕闇が次第に濃くなってゆく・・・。
グリゴーリーさんが車を止めた場所は、軍事施設らしい。門が閉まり、検問所には軍人が数人いる。
軍人たちは、郷土史家グリゴーリーさんとは顔なじみであり、外国人である我々4人が顔を見せても特に緊張した様子はない。
門の横に、チェーホフが1890年7月11日にアレクサンドロフスク港に到着したということが記された小さなプレートが掲げられている。中本さんは、それを訳して我々に教えてくださる。
そのプレートによると、どうやら、チェーホフがアレクサンドロフスクに到着した119年前の7月11日は、ロシアの旧暦の日付らしい。つまり、現在の日付で言うと10日あまり遅いことになるらしい、
しかし、10日ほどの違いは、左程重要なことではない。既に、ロシア文壇にデビューし、人気作家であったチェーホフが、9000キロの距離のシベリアを越え、二か月の苛酷な旅に出て、サハリンへやってきたという事実が我々にとって大切なのだ。
遥かなる シベリア越えて 着きし海 君が姿を 想う桟橋
追憶の 詩人の往きし 埠頭には 煙たなびき かもめ飛び交う
ふとそんな歌が、私のこころに浮かんだ。30歳のチェーホフは、サハリン行きに関しては文献を読み込み、周到な準備をしたようだ。しかし、本人はその頃に喀血し、周囲の人間は何故このような最果ての地を訪れるのかを疑問に思った。
チェーホフは医者でもあり、客観的な判断を下せば、若き青年とはいえ病身のチェーホフには危険な旅だった。
後世の作家たちも、このサハリンへの旅には同じような疑問を持ち、多くの人がこの件に関して言及している。つまり、文学的目的もなく、病身を押してまで、チェーホフは何故サハリンへ行ったのかということである。
私が読んだだけでも、旭季彦、佐々木基一、湯浅芳子、中村融というロシア文学の研究者、そして今目の前にいる中本信幸さんが著書でこの件に触れている。
私がこの旅に出る直前に読んだものでは、作家高見順が書いた
「チェーホフは何故サガレンへ行ったか」
という文章が心に残っている。この高見順の文章は、最後が、如何にも文士としての姿勢を貫いた彼らしい次の言葉で締めくくられている。
「チェーホフの問題は、私自身の問題である。私たちの問題である」
作家として、人間としてのチェーホフに対する姿勢は、高見順のこの言葉に尽きる。
敢えて私が、
「アレクサンドロフスクに来た理由」
を探してみると、まさに高見順が残したこの一言に尽きる。
車で港の軍の施設の横を通り抜けて、砂浜の海岸へ出た。固く閉まった砂浜を「いすゞミュー」は難なく走り抜けて行く。海岸線の南にはジョンキエール岬、海の上には、先ほどそこから見下ろした
「三人兄弟の岩」
が、浮かんでいる。
チェーホフは、「サハリン島」で、この沖に着いた時のこの周囲の海の印象を次のように書いている。
「右手にはクリミアのアユ・ダーク山に似たジョンキエール岬が、黒々とした重々しい塊となって海に突き出ている。その頂上には灯台があかあかと輝いて、下のほう、海面の、われわれと岸辺との間には、「三人兄弟」という名の三つの岩が突っ立ている。しかも、それらすべてが、まるで地獄のように煙につつまれているのだ」
グリゴーリーさんが、ジョンキエール岬で
「どうしても、海に落ちゆく夕陽を見せたい」
と、我々に伝えた理由がよく分かった。つまり、ここで見る夕陽は
「チェーホフの夕陽」
なのである。
これ以上は進められない最終地点へ車を置くと、我々はグリゴーリーさんの後に付いて海岸を歩く。海岸に沿った岸壁がそそり立ち、時々、石炭の黒い層が剥き出しになっている。
玉井さんと、高田さんはさすがに疲れたらしく、途中で諦め後方の海岸の石に腰かけている。無理はしない方がいい。
中本さんは、疲れを知らない。グリゴーリーさんと地形、自然、歴史、文学の話をしながら、海へ突き出たジョンキエール岬へどんどん進んで行く。チェーホフへの情熱、ロシア的なものへの尽きることのない好奇心・・。私は、この旅で彼から学んだものは大きい。
冷静な知性の内に秘めた燃えるような情熱、この旅で中本さんに感じることはこれだった。それが、サハリンで最もチェーホフと因縁の深いアレクサンドロフスクで、さらに燃え上っている。
ゴロゴロとしている石の中には、貝の化石がある。郷土史家グレゴーリーさんは、このような自然の残した化石にも関心が深い。柔らかな彼の感性は、守備範囲を郷土史に止まらせることはない。
我々は、アレクサンドロフスクで、これ以上は望めないギリゴーリーさんという素晴らしい案内人を得たのだ。
しばらく行くと、チェーホフも歩いたという、ジョンキエール岬の直下を南側へ貫通する坑道へ入った。19世紀から20世紀にかけて石炭を運搬する線路が、突き抜けた南側から、我々が立ち寄った港まで敷かれて、その上をトロッコが走っていた。
坑道の中は人が立っても十分な高さと横幅がある。さらに進むと真っ暗な坑道の向こうに、光射す出口が見えていくる。
ジョンキエール岬を通り抜けて出口に着いた。南へ続く海岸線が、光に照らされキラキラと輝いている。
つい一時間ほど前に行った、萱草(きすげ)の群生していた急な崖の斜面の上を見上げる。
数人の人々が夏ののんびりした時間を過ごしている。奇岩の上に立ってポーズする野球帽子をかぶった少年を撮影する。落ちゆく太陽の逆行の光が、少年背後から射している。
しばらくして、、グリゴーリーさん、中本さん、そして私の3人は坑道に戻って通り抜け、車を止めた地点へ戻った。
待てども、待てども、夏の太陽は落ちない。ゆるやかにカーブを描いて太陽が落ちゆく地点を想像しながら、私は、最終撮影地点を探す。微妙なずれが、今日最後の頂点を示す夕陽の写真の構図を狂わせるのだ。
ビデオの撮影をしている高田さんも、夕陽が落ちて行く地点を探して移動している。私よりは、北側の地点に彼は腰をおろした。
私の目の前の海岸線を歩く家族、肩車する父と子、犬を散歩させる女性、一人佇む男のシルエットを撮影する。私は、日本では人物を撮影することはほとんどないのだが、サハリンへ来てから、私の被写体は人物がかなりの割合を占めている。
「こんにちは・・・・」
突然、撮影している私に日本語で語りかける人がいる。海水パンツ一つで、にこやかな笑顔の中年男性である。
中本さんに通訳してもらうと、石油関連のプロジェクトで働いている人で、仕事で日本人と付き合いがあり、非常に親近感を持っているとの事だった。
夜行寝台列車では、深夜に
「おはようございます」
と挨拶をされたばかりだが、アレクサンドロフスクの海岸で「こんにちは」と挨拶されるとは思っていなかった。彼は中本さんとしばらくの間、夕陽に照らされながら話をしていた。
「三兄弟の岩」に接近した太陽が、少しづつ傾いてきた。
「三兄弟の岩」とは、ヘングという三兄弟が、熊と、浜に打ち上げられた鯨を見に行った時に、この三つの岩を発見したというのでこの名が付けられたということだ。日本でも、このような名の付け方はよくあることだが、ロシアでも事情は同じことだった。
午後9時、この海岸へ着いてから約3時間が経過したときに、三兄弟岩の一番右の岩の横に陽が沈んでゆく。
私は、心を落ち着かせて、ゆっくりと、カメラのシャッターを押し続ける。
チエーホフも、1890年夏、ちょうど同じような時間に此処に佇み、夕陽の落ちゆく姿を眺めたに違いない。私は、この光景を「アレクサンドロフスクの夕陽」でも「三兄弟の岩の夕陽」でもなく、いまだ青春の途上にアレクサンドロフスクを訪れたアントン・チェーホフに敬意を表して
「チェーホフの夕陽」
と、名付けた。
間宮海峡の遥かな水平線に、三兄弟の岩をシルエットにした夕陽が落ちてゆく。あの水平線の向こうにはシベリアから広大なロシア本土が続いている。
今まで、私は、繰り返し海に落ちゆく夕陽を撮影して来たが、これほど長時間に渉って夕陽を待った経験はない。
私という小さな存在を遥かに越えて、過去から現在に至るまで幾度となく繰り返される宇宙の営みを、アレクサンドロフスクで見られたという至福の想いが心を過ぎる。
海の夕闇が次第に濃くなってゆく・・・。
2009年08月05日
サハリン島-詩人たちへの旅-15.ジョンキエール岬
2009年7月13日午前10時、我々4人は郷土史家グリゴーリーさんの4輪駆動車いすずミューでアレクサンドロフスク市役所へ向かった。
小さな二階建の市役所である。ロシア人特有の胸幅の広く厚い体型の市長のウラジミール・フィヨードロビッチ・ニキーチン氏に会う。素朴な、一見すると、サハリンの野で働く農民という雰囲気の人だった。
にこやかな表情で我々4人を向かい入れてくれたニキーチン氏と、我々の今回の旅の目的である
「アレクサンドロフスクでの作家チェホーフの足跡をたどること」
「サハリンと関係の深い日本の詩人小熊秀雄への認識をして頂くこと」
「我々のサハリンの歴史、文化への認識を高めること」
について、語りあった。日本人が、観光目的でアレクサンドロフスクを訪れることは少なく、この町にある「チェーホフ博物館」を訪れる人はさらに少ない。市長としては、ホテルを整備し、将来には観光でこの町を訪れる人を増やしたいと考えているようだ。
その大きな目玉がチェーホフだが、チエーホフの戯曲や短編を読んでいる日本人は多くとも、1890年にチエーホフがサハリン島を訪れて3か月を過ごし、
「サハリン島」
という著作を残していることは知られていない。まして、読んでいる人はさらに少ないだろう。
帰り際、ニキーチン氏に日本から持ってきたお菓子、「小熊秀雄詩撰 星の光りのように」などを渡す。市長室の大きな机の後ろには、アレクサンドロフスクの港の油絵、ロシア国旗、サハリン州旗、それにプーチン元大統領の写真が飾ってある。
ニキーチン氏と記念写真を数枚撮った後、市庁舎を出て、アレクサンドロフスクの南の郊外
「哨所ドゥーエ」
へ行く。哨所とは「監視所」と言うような意味である。海岸沿いの道は、霧に閉ざされて寒々としている。私は、夏らしい明るい光と青空のアレクサンドロフスク周辺よりは、このような霧に包まれた天候を撮影することを望んでいた。
チェーホフの「サハリン島」は、色彩感のある鮮やかな写真より、むしろ、モノクロ写真こそふさわしい。
チェーホフは、1890年にアレクサンドロフスクに滞在中、ドゥーエを訪れこの村の印象を「サハリン島」に次のように書いている。
「西海岸には、アレクサンドロフスクより南の町はたった一つ-ドゥーエがあるだけだ。それは恐ろしい、ぶざまな、あらゆる点でやくざなところで、こんなところへ住むことができるのは、聖職者か骨の髄まで腐りきった人間だけだ」
チエーホフが、いい印象を持たなかったドゥーエ、海は霧に閉ざされ、流刑者たちのいた刑務所はなく、炭鉱は閉山、かつて日本人が住んでいたという住居跡も今は廃墟である。しかし、そうであるだけにかつて陰惨な雰囲気が、チエホーフの見たものに近いように思われる。
海岸に車を止めて男5人で、霧に閉ざされた海を見る。そこで、グリゴーリーさんの用意してくれたウォッカとチーズをのせたクラッカーで乾杯をする。ウオッカを飲むグラスは、ステンレス製で日本で言うお猪口程度の大きさ、それをコンパクトに5個重ねたものを皮製の容器に入れてある。
素晴らしいアウトドア用の用具である。グリゴーリーさんは、心配りの行き届いた人である。ウオッカ、クラッカーを皆に勧めて
「乾杯」
を、続ける。陰惨なドゥーエ哨所の雰囲気は一気に吹っ飛び、豪快な野外パーティーとなる。
グリゴーリーさんによると、日本の相撲のかつての横綱大鵬の父はアレクサンドロフスク生まれだという。この地で酒屋をやっていたらしいが、革命が起きた時に、商売がうまくいかなくなり、ポロナイスク(旧-敷香)へ移り住み、そこで日本人の女性と出会い結婚、そこで大鵬幸喜が生まれた。大鵬は、やはり、ロシア人と日本人の混血であるが、大鵬自身は、この地へ来たり親戚と会ったりするのを好まないという。
午後1時30分、市庁舎の近くの
「ピョルパー」(真珠)
というレストランで食事をする。グリゴーリーさんは、ビールはあまり好きではないようだが、中本、玉井、高田さんに付き合って飲んでいる。私は、さっきの魅力的なステンレス製の小さなグラスのウオッカは飲んだが、ここでの乾杯は避けた。相変わらず気にってしまったグランベリーで作られた
「モルス」
と言うジュースを飲む。透明に澄んだ、グランベリーの赤い色が美しいジュースだ。
食事は非常においしい。新鮮な蟹サラダ、ウハーというスープ、キエフ風カツレツなどが出てくる。
グリゴーリーさんが、この時、語った
「ロシア人は、規律がなく、1904年の日露戦争には負けたが創造的な人種である」
というお話が心に残る。逆に言うと
「日本人は天皇や権威に従順で規律があるが、創造性がない」
ということになる。今や、科学とビジネス一辺倒の日本人と言えるかもしれない。
そこで、私はロシアとのかかわりの深かった日本人
「広瀬武夫-海軍中佐」(1968~1904)
のことを思った。彼は、大分生まれ。ロシアへ留学、日露会戦争の際、旅順港閉塞隊の福井丸を指揮、戦死した。彼は、戦後軍神として謳われた人である。
私は、広瀬武夫が、日本のその後の戦意高揚、天皇崇拝に利用された事実よりも、ロシアとのかかわりに注目している。留学中に出ったアリアズナ・ウラジーミロブナという女性との恋はもちろんだが、広瀬はロシアへ滞在中、プーシキンの詩を何編かを漢詩に訳したり、ゴーゴリやトルストイをロシア語で読んでいたと言う。
また彼は、日本へ帰国の際には、厳寒のシベリアを犬橇で走らせたという。
その後も日本人とロシアの関わりは続いたのであるが、私は、ロシアの人々との紳士的な潔い接し方、そしてロシアの文学を深く理解した広瀬武夫の生きざまに惹かれる。
食事を終え外に出ると晴れている。朝とは全く違った青空である。
今度は、車でアレクサンドロフスクの海の見える展望台へ行く。舗装されていない道をどんどん登り、灯台の見える高台に着いた。
午後5時30分。車を降りて細い道を歩く。海が目前に広がった。
チエホーフが、1890年に滞在中に、この場所に灯台があったという。現在は、左下の方角の海岸に近い場所に灯台があるが、チェーホフの訪れたものではない。
さらに、細い道を進む黄色い「萱草」(かんぞう)が群生しているジョンキル岬に出る。北の方角を見ると、
「この構図の風景だ」
と、思った。まだ旅に出る前に、いくつかのアレクサンドロフスクの古いモノクロの写真を見た。その中に
「北へと湾曲した海岸線、海へと突き出した細長い埠頭、そしてその背後に印象的な川のカーブと町」
の写った写真があった。非常に印象的な構図であり、私はそれを鉛筆でデッサンした。
そして、私はこれと同じ構図で写真の撮れる場所へ行きたいと思った。それを、グリゴーリーさんに伝えようかと思った。しかし、伝えることなどなくとも、その場所へ来ることになったのだ。
「どうしても、三人兄弟の岩に落ちる夕陽を見せたい」
午後6時を過ぎていた。黄色い萱草の咲くジョンキル岬を降り、港の桟橋を見た後にグリゴーリーさんがこう言った。
「三人兄弟の岩」とは、今眼下に見える海に切り立った三つの岩のことである。町に戻り、回り込んで埠頭の南の海岸線へ行く必要がある。まだまだ、陽は高い。
もちろん、ギリゴーリーさんの申し出に対して我々に異論はない。車に乗ると、萱草の咲くジョンキル岬を後にした。
小さな二階建の市役所である。ロシア人特有の胸幅の広く厚い体型の市長のウラジミール・フィヨードロビッチ・ニキーチン氏に会う。素朴な、一見すると、サハリンの野で働く農民という雰囲気の人だった。
にこやかな表情で我々4人を向かい入れてくれたニキーチン氏と、我々の今回の旅の目的である
「アレクサンドロフスクでの作家チェホーフの足跡をたどること」
「サハリンと関係の深い日本の詩人小熊秀雄への認識をして頂くこと」
「我々のサハリンの歴史、文化への認識を高めること」
について、語りあった。日本人が、観光目的でアレクサンドロフスクを訪れることは少なく、この町にある「チェーホフ博物館」を訪れる人はさらに少ない。市長としては、ホテルを整備し、将来には観光でこの町を訪れる人を増やしたいと考えているようだ。
その大きな目玉がチェーホフだが、チエーホフの戯曲や短編を読んでいる日本人は多くとも、1890年にチエーホフがサハリン島を訪れて3か月を過ごし、
「サハリン島」
という著作を残していることは知られていない。まして、読んでいる人はさらに少ないだろう。
帰り際、ニキーチン氏に日本から持ってきたお菓子、「小熊秀雄詩撰 星の光りのように」などを渡す。市長室の大きな机の後ろには、アレクサンドロフスクの港の油絵、ロシア国旗、サハリン州旗、それにプーチン元大統領の写真が飾ってある。
ニキーチン氏と記念写真を数枚撮った後、市庁舎を出て、アレクサンドロフスクの南の郊外
「哨所ドゥーエ」
へ行く。哨所とは「監視所」と言うような意味である。海岸沿いの道は、霧に閉ざされて寒々としている。私は、夏らしい明るい光と青空のアレクサンドロフスク周辺よりは、このような霧に包まれた天候を撮影することを望んでいた。
チェーホフの「サハリン島」は、色彩感のある鮮やかな写真より、むしろ、モノクロ写真こそふさわしい。
チェーホフは、1890年にアレクサンドロフスクに滞在中、ドゥーエを訪れこの村の印象を「サハリン島」に次のように書いている。
「西海岸には、アレクサンドロフスクより南の町はたった一つ-ドゥーエがあるだけだ。それは恐ろしい、ぶざまな、あらゆる点でやくざなところで、こんなところへ住むことができるのは、聖職者か骨の髄まで腐りきった人間だけだ」
チエーホフが、いい印象を持たなかったドゥーエ、海は霧に閉ざされ、流刑者たちのいた刑務所はなく、炭鉱は閉山、かつて日本人が住んでいたという住居跡も今は廃墟である。しかし、そうであるだけにかつて陰惨な雰囲気が、チエホーフの見たものに近いように思われる。
海岸に車を止めて男5人で、霧に閉ざされた海を見る。そこで、グリゴーリーさんの用意してくれたウォッカとチーズをのせたクラッカーで乾杯をする。ウオッカを飲むグラスは、ステンレス製で日本で言うお猪口程度の大きさ、それをコンパクトに5個重ねたものを皮製の容器に入れてある。
素晴らしいアウトドア用の用具である。グリゴーリーさんは、心配りの行き届いた人である。ウオッカ、クラッカーを皆に勧めて
「乾杯」
を、続ける。陰惨なドゥーエ哨所の雰囲気は一気に吹っ飛び、豪快な野外パーティーとなる。
グリゴーリーさんによると、日本の相撲のかつての横綱大鵬の父はアレクサンドロフスク生まれだという。この地で酒屋をやっていたらしいが、革命が起きた時に、商売がうまくいかなくなり、ポロナイスク(旧-敷香)へ移り住み、そこで日本人の女性と出会い結婚、そこで大鵬幸喜が生まれた。大鵬は、やはり、ロシア人と日本人の混血であるが、大鵬自身は、この地へ来たり親戚と会ったりするのを好まないという。
午後1時30分、市庁舎の近くの
「ピョルパー」(真珠)
というレストランで食事をする。グリゴーリーさんは、ビールはあまり好きではないようだが、中本、玉井、高田さんに付き合って飲んでいる。私は、さっきの魅力的なステンレス製の小さなグラスのウオッカは飲んだが、ここでの乾杯は避けた。相変わらず気にってしまったグランベリーで作られた
「モルス」
と言うジュースを飲む。透明に澄んだ、グランベリーの赤い色が美しいジュースだ。
食事は非常においしい。新鮮な蟹サラダ、ウハーというスープ、キエフ風カツレツなどが出てくる。
グリゴーリーさんが、この時、語った
「ロシア人は、規律がなく、1904年の日露戦争には負けたが創造的な人種である」
というお話が心に残る。逆に言うと
「日本人は天皇や権威に従順で規律があるが、創造性がない」
ということになる。今や、科学とビジネス一辺倒の日本人と言えるかもしれない。
そこで、私はロシアとのかかわりの深かった日本人
「広瀬武夫-海軍中佐」(1968~1904)
のことを思った。彼は、大分生まれ。ロシアへ留学、日露会戦争の際、旅順港閉塞隊の福井丸を指揮、戦死した。彼は、戦後軍神として謳われた人である。
私は、広瀬武夫が、日本のその後の戦意高揚、天皇崇拝に利用された事実よりも、ロシアとのかかわりに注目している。留学中に出ったアリアズナ・ウラジーミロブナという女性との恋はもちろんだが、広瀬はロシアへ滞在中、プーシキンの詩を何編かを漢詩に訳したり、ゴーゴリやトルストイをロシア語で読んでいたと言う。
また彼は、日本へ帰国の際には、厳寒のシベリアを犬橇で走らせたという。
その後も日本人とロシアの関わりは続いたのであるが、私は、ロシアの人々との紳士的な潔い接し方、そしてロシアの文学を深く理解した広瀬武夫の生きざまに惹かれる。
食事を終え外に出ると晴れている。朝とは全く違った青空である。
今度は、車でアレクサンドロフスクの海の見える展望台へ行く。舗装されていない道をどんどん登り、灯台の見える高台に着いた。
午後5時30分。車を降りて細い道を歩く。海が目前に広がった。
チエホーフが、1890年に滞在中に、この場所に灯台があったという。現在は、左下の方角の海岸に近い場所に灯台があるが、チェーホフの訪れたものではない。
さらに、細い道を進む黄色い「萱草」(かんぞう)が群生しているジョンキル岬に出る。北の方角を見ると、
「この構図の風景だ」
と、思った。まだ旅に出る前に、いくつかのアレクサンドロフスクの古いモノクロの写真を見た。その中に
「北へと湾曲した海岸線、海へと突き出した細長い埠頭、そしてその背後に印象的な川のカーブと町」
の写った写真があった。非常に印象的な構図であり、私はそれを鉛筆でデッサンした。
そして、私はこれと同じ構図で写真の撮れる場所へ行きたいと思った。それを、グリゴーリーさんに伝えようかと思った。しかし、伝えることなどなくとも、その場所へ来ることになったのだ。
「どうしても、三人兄弟の岩に落ちる夕陽を見せたい」
午後6時を過ぎていた。黄色い萱草の咲くジョンキル岬を降り、港の桟橋を見た後にグリゴーリーさんがこう言った。
「三人兄弟の岩」とは、今眼下に見える海に切り立った三つの岩のことである。町に戻り、回り込んで埠頭の南の海岸線へ行く必要がある。まだまだ、陽は高い。
もちろん、ギリゴーリーさんの申し出に対して我々に異論はない。車に乗ると、萱草の咲くジョンキル岬を後にした。
2009年08月04日
サハリン島-詩人たちへの旅-14.アレクサンドロフスク
2009年7月13日午前7時3分。寝台夜行列車は、ユジノサハリンスクから約500キロを10時間、定刻通りで北サハリンの入口にあたる町
「ティモフスク」
に着いた。第二次世界大戦前は、ここに国境検問所があり、サハリンが思想版、政治犯の流刑地だった帝政ロシア時代に、その流刑地の本拠地として出来た町である。現在の人口は、約1万7000人。
我々4人は、荷物を下ろし、列車から朝の駅舎へと降り立った。
乗降客はたくさんいるが、町は駅から離れているところにあるらしく周囲は閑静としている。大きな原木が駅構内に集められ、列車に積み込まれるのを待っている。
「中本さん!!」
と、前方で男性の声がする。髭を蓄え、紺色の野球帽子、アーミー・ジャケットを来た、ガッチリとした大柄な人が、中本さんと抱き合っている。
今日の目的地、アレクサンドロフスクから迎えに来てくれた郷土史家グリゴーリー・ニコライビッチ・スメカーロフさんだった。チェーホフ専門家の中本さんは、チェーホフと因縁の深い土地、アレクサンドロフスクを繰り返し訪れている。つまり、グリゴーリーさんとは旧知の間柄である。
中本さんと語り合い、雲間へと向かうグリゴーリーさんを一目見て、その表情に優しさと知性を感じた。そして、遥かなる未知の土地、アレクサンドロフスクの滞在が、楽しいものになることを確信する。
アレクサンドロフスク市長が差し向けたというロシア製の大型ワンボックスカーに、後部座席に玉井、高田さん、中部座席には、丸く取り囲むようにグリゴーリーさん、中本さん、私が乗り込む。運転手は、市長が差し向けたひとである。これから、この車で約1時間で間宮海峡に面したアレクサンドロフスクへ着くという。
ティモフスクの町を出ると、原野の中を未舗装の道がどこまでも続く。中本さんとグリーゴーリーさんのロシア語によるお話が続く。
グリゴ-リーさんは、50歳。サハリン、特に北の方面の歴史を専門とする郷土史家である。アレクサンドロフスク図書館に彼専用のオフィスがあり、公務員でもあるようだ。
彼は、英語を話すことがわかった。ロシア語訛りが感じられるが、かなりうまい。これで、彼と私はある程度のお話ができる。
彼は日本にも来たことがある。日本の盃、徳利などを収集しているらしい。これらの収集品を、我々の滞在中に必ず見せるという。
中本さんが、私を書道の専門家であると紹介すると、私に、盃、徳利に書かれている漢字で判明していない文字を教えてほしいと言った。
アレクサンドロフスクへの途中の峠で
「戦勝碑」
に立ち寄る。黒い大きな石碑にロシア文字が刻まれている。第二次世界大戦の南樺太解放を記念したものらしい。
周辺には今は何もないが、かつては、捕虜や政治犯の収容所があった。
昭和13年(1937年)1月3日、新協劇団演出家杉本良吉32歳と、女優岡田嘉子37歳は、馬橇で北緯50度を超えてロシアへ亡命した。衝激的な事件だった。二人は、ソ連側の手で、我々が着いたばかりのアレクサンドロフスクへ移送、二人は引き離される。岡田嘉子はその後、サハリンからソ連へ本土へ送られたが、杉本良吉は日本の参謀本部が送ったスパイとされ銃殺された。
グリゴーリーさんによると、アレクサンイロフスクに移送され、岡田嘉子と別れた杉本良吉が銃殺された場所、それが、今我々が立っている地点の原野だという。それから72年、日本でも忘れ去られつつある越境事件の杉本良吉の苛酷な現実がここで終わっていた。
坂を下り、いよいよアレクサンドロフスクの町へ入る。今から119年前の1890年4月19日、サハリンを目指したチェーホフが9000kmの距離を越え、7月11日、モスクワを出て83日目に、この地
「アレクサンドロフスク」
に到着した。彼は、後に本となった
「サハリン島」
で、
「サハリンのパリ」
と呼んだ。
我々4人が、アレクサンドロフスクへ着いた今日は、7月13日。119年前のチェーホフのアレクサンドロフスク到着とはたった2日間しか違わない。同じ夏のアレクサンドロフスクで彼は2か月を過ごし、流刑民と対面し「調査カード」1万枚あまりを残している。この旅は、チェーホフにとっては観光旅行ではなく、仕事であり、創作上の課題だった。
靄のかかったマラヤ・アレクサンドロフカ川には、白い橋がかけられている。落ち着いた街並みは、チェーホフが滞在した当時とは変わっているだろうが、チェーホフが「サハリンのパリ」と呼んだ面影がないともいえない。
アレクサンドロフスクの現在の人口は18.000人、町の産業は林業、鉱業、農業、漁業であるという。
午前8時、レーニン広場に対面した場所に位置する
「3人兄弟ホテル」
にチェックインする。ホテルのロビーには、ロシアン・ブラックの猫がいて、非常に魅惑的な瞳で私を見つめる。私は、この猫を撮影しながら、この猫の名前を
「エカテリーナ」
と名付けた。エカテリーナとは、ロシアの女帝(1729~1976)の名である。この際、魅惑的な猫に便宜的に名を使わせて頂いただけのことである。
4階が、我々の割り当てられた部屋だった。今夜も、私は中本さんとの組み合わせとなった。
早速、空腹だった我々は地下まで降りて行って朝食をとる。ここで感激したことは、ロシアへ来て以来、ずっとインスタント・コーヒーしか飲めなかったのだが、初めて本物の香り高いコーヒーを飲めたことだった。
ただし、朝食として出された御粥は、色が黄色でやや甘いのが難点だった。
午前9時30分、再び、グリゴ-リーさんがホテルへ現れた。今度は、市長専用車ではなく、グリゴーリーさん自身の四輪駆動車
「いすず-ミュー」
で、近くの市庁舎での市長表敬訪問と、近郊の海沿いのドゥーエ哨所へ行くとになった。いよいよ、待望のアレクサンドロフスク探訪が始まる。
「ティモフスク」
に着いた。第二次世界大戦前は、ここに国境検問所があり、サハリンが思想版、政治犯の流刑地だった帝政ロシア時代に、その流刑地の本拠地として出来た町である。現在の人口は、約1万7000人。
我々4人は、荷物を下ろし、列車から朝の駅舎へと降り立った。
乗降客はたくさんいるが、町は駅から離れているところにあるらしく周囲は閑静としている。大きな原木が駅構内に集められ、列車に積み込まれるのを待っている。
「中本さん!!」
と、前方で男性の声がする。髭を蓄え、紺色の野球帽子、アーミー・ジャケットを来た、ガッチリとした大柄な人が、中本さんと抱き合っている。
今日の目的地、アレクサンドロフスクから迎えに来てくれた郷土史家グリゴーリー・ニコライビッチ・スメカーロフさんだった。チェーホフ専門家の中本さんは、チェーホフと因縁の深い土地、アレクサンドロフスクを繰り返し訪れている。つまり、グリゴーリーさんとは旧知の間柄である。
中本さんと語り合い、雲間へと向かうグリゴーリーさんを一目見て、その表情に優しさと知性を感じた。そして、遥かなる未知の土地、アレクサンドロフスクの滞在が、楽しいものになることを確信する。
アレクサンドロフスク市長が差し向けたというロシア製の大型ワンボックスカーに、後部座席に玉井、高田さん、中部座席には、丸く取り囲むようにグリゴーリーさん、中本さん、私が乗り込む。運転手は、市長が差し向けたひとである。これから、この車で約1時間で間宮海峡に面したアレクサンドロフスクへ着くという。
ティモフスクの町を出ると、原野の中を未舗装の道がどこまでも続く。中本さんとグリーゴーリーさんのロシア語によるお話が続く。
グリゴ-リーさんは、50歳。サハリン、特に北の方面の歴史を専門とする郷土史家である。アレクサンドロフスク図書館に彼専用のオフィスがあり、公務員でもあるようだ。
彼は、英語を話すことがわかった。ロシア語訛りが感じられるが、かなりうまい。これで、彼と私はある程度のお話ができる。
彼は日本にも来たことがある。日本の盃、徳利などを収集しているらしい。これらの収集品を、我々の滞在中に必ず見せるという。
中本さんが、私を書道の専門家であると紹介すると、私に、盃、徳利に書かれている漢字で判明していない文字を教えてほしいと言った。
アレクサンドロフスクへの途中の峠で
「戦勝碑」
に立ち寄る。黒い大きな石碑にロシア文字が刻まれている。第二次世界大戦の南樺太解放を記念したものらしい。
周辺には今は何もないが、かつては、捕虜や政治犯の収容所があった。
昭和13年(1937年)1月3日、新協劇団演出家杉本良吉32歳と、女優岡田嘉子37歳は、馬橇で北緯50度を超えてロシアへ亡命した。衝激的な事件だった。二人は、ソ連側の手で、我々が着いたばかりのアレクサンドロフスクへ移送、二人は引き離される。岡田嘉子はその後、サハリンからソ連へ本土へ送られたが、杉本良吉は日本の参謀本部が送ったスパイとされ銃殺された。
グリゴーリーさんによると、アレクサンイロフスクに移送され、岡田嘉子と別れた杉本良吉が銃殺された場所、それが、今我々が立っている地点の原野だという。それから72年、日本でも忘れ去られつつある越境事件の杉本良吉の苛酷な現実がここで終わっていた。
坂を下り、いよいよアレクサンドロフスクの町へ入る。今から119年前の1890年4月19日、サハリンを目指したチェーホフが9000kmの距離を越え、7月11日、モスクワを出て83日目に、この地
「アレクサンドロフスク」
に到着した。彼は、後に本となった
「サハリン島」
で、
「サハリンのパリ」
と呼んだ。
我々4人が、アレクサンドロフスクへ着いた今日は、7月13日。119年前のチェーホフのアレクサンドロフスク到着とはたった2日間しか違わない。同じ夏のアレクサンドロフスクで彼は2か月を過ごし、流刑民と対面し「調査カード」1万枚あまりを残している。この旅は、チェーホフにとっては観光旅行ではなく、仕事であり、創作上の課題だった。
靄のかかったマラヤ・アレクサンドロフカ川には、白い橋がかけられている。落ち着いた街並みは、チェーホフが滞在した当時とは変わっているだろうが、チェーホフが「サハリンのパリ」と呼んだ面影がないともいえない。
アレクサンドロフスクの現在の人口は18.000人、町の産業は林業、鉱業、農業、漁業であるという。
午前8時、レーニン広場に対面した場所に位置する
「3人兄弟ホテル」
にチェックインする。ホテルのロビーには、ロシアン・ブラックの猫がいて、非常に魅惑的な瞳で私を見つめる。私は、この猫を撮影しながら、この猫の名前を
「エカテリーナ」
と名付けた。エカテリーナとは、ロシアの女帝(1729~1976)の名である。この際、魅惑的な猫に便宜的に名を使わせて頂いただけのことである。
4階が、我々の割り当てられた部屋だった。今夜も、私は中本さんとの組み合わせとなった。
早速、空腹だった我々は地下まで降りて行って朝食をとる。ここで感激したことは、ロシアへ来て以来、ずっとインスタント・コーヒーしか飲めなかったのだが、初めて本物の香り高いコーヒーを飲めたことだった。
ただし、朝食として出された御粥は、色が黄色でやや甘いのが難点だった。
午前9時30分、再び、グリゴ-リーさんがホテルへ現れた。今度は、市長専用車ではなく、グリゴーリーさん自身の四輪駆動車
「いすず-ミュー」
で、近くの市庁舎での市長表敬訪問と、近郊の海沿いのドゥーエ哨所へ行くとになった。いよいよ、待望のアレクサンドロフスク探訪が始まる。
2009年08月03日
サハリン島-詩人たちへの旅-13.夢の銀河鉄道
2009年7月12日。第一回目の待望の文学座談会「詩人小熊秀雄」を終えたのは午後6時15分だった。
今夜は、北緯50度を超える北のアレクサンドロフスクへ向かう寝台列車に乗る。我々は、宮沢賢治が大正12年(1925年)、今から84年前に樺太の旅で乗ったものと同じ列車に乗ることになるのだ。
午後8時、ツーリスト・ホテルからタクシーでユジノサハリンスク駅へ向かった。駅に荷物を置き、玉井さんと高田さんに荷物を任せると、中本さんと私は駅前のレーニン広場にある食料品店で買い物をした。
さほど大きい店ではないが、食糧なら何でもある。ビール8本、ジュース、野菜煮もの、野菜ピクルス、ポテト、にしん酢漬け、タラの揚げ物、肉の揚げ物・、サラミ、黒パン・・。最後に玉井さんのために煙草を二箱買った。
午後8時30分、入線してきた夜行列車に乗り込む。ここユジノサハリンスク駅も、日本のようなプラットホームはなく、地面からよじ登るようにして列車へ入り込む。これに、荷物が加わるので列車に乗り込むこと自体が体力のいる行為となる。
ほぼ満員である。我々4人のコンパートメントに、それぞれの荷物を収める。高田さんが、出発の前に、列車や駅構内の様子をビデオカメラに撮るために外へ出た。しばらくすると、
「ビデオカメラ撮影は禁止と差し止められた」
と言って戻ってくる。コルサコフ港に迎えに来てくれた通訳の女性ヴェスタさんに
「カメラ撮影は、禁止されている場所はありますか?」
と、私が聞くと
「ほとんどの場所は大丈夫ですが、駅の中はだめですね」
と、答えていたのを思い出した。駅が何故撮影禁止なのかはわからない。
つい先ほど、買ってきた飲み物、食糧を取り出し夕食の準備をしていると、私服の警官らしき人が来て、写真入りの身分証明書を差し出して
「駅構内の撮影は禁止です」
と、我々に念を押した。ロシアのサハリン島へ来て以来、コルサコフの港を除けば、警官、軍人の姿を見ることも少なく、何事もなくここまで来た。高田さんはビデオ・カメラ、私は写真撮影を行っているが、私の撮影に関してはこのような規制はいままでのところ一度もない。
午後8時40分、ユジノサハリンスク駅を静かに夜行列車が動き出す。
我々は、ビデオ撮影禁止事件はあったものの、さっそくビールで乾杯し夕食が始まった。私は、相変わらずジュースと水で通し、食べ物だけはたくさん食べる。
トイレへ行こうとすると、通路に立っている中年の男性に
「おはようございます」
と、語りかけられる。午後9時、夕陽が落ち、少しづつ暗くなっている。彼は、日本人とどこかで出会い、「おはようございます」だけを覚えたらしい。彼と、握手をし、私も仕方がないので
「おはようございます」
と、答えた。私より小柄な彼は、こう答えると非常にうれしそうな表情をする。冷たいイメージの先行するロシアという異国ではあっても、やはり、心の温かい人は必ずいる。彼の表情を見ていて、私はそう思った。
外を見ると、湿原地帯が広がり、黄色い花が群生している。
百合の仲間の「かんぞう」である。北海道では「エジカンゾウ」と呼ばれ、6月中旬に咲く花である。サハリンと北海道では一月ほど開花の時期がずれている。
小熊秀雄が大正12年(1923年)に、旭川新聞に書いた「農奴時代」には、この花を「かんぞ」と表現して次のような文章を書いている。
「私はよく彼にまたがって樺太の未懇の大樹林に踏みいった。私の愛馬はことに「かんぞ」の黄色い花弁を好んで食べた。私はそこで馬と同じやうに大きく心室の扉をひらいて崇高な大気に呼吸(いき)した」
この文章に登場する「かんぞ」こそ、今、目の前に広がる湿原に咲く黄色い花である。森の中で、自らをロシア的な呼称で「農奴」とよぶ青年のまたがる青馬は、黄色の花弁の「かんぞ」を食べる。
色彩感に溢れ、ロシア的で、詩的な表現である。そして、異国的な樺太に住んだことのある詩人にしか書けない映像的な表現を自らのものとしている。
そして、小熊秀雄のこの文章と、ほとんど時を同じくして、宮沢賢治は大正12年(1923年)7月末から8月初旬の夏に樺太を訪れ、
「マサニエロ」
「オホーツク挽歌」
「樺太鉄道」
「鈴谷平原」
などの詩が生まれた。やや、時期が違ったせいで、車窓から今、私の目に映る「かんぞう」の花は、宮沢賢治の詩には登場しない。しかし、繰り返し「やなぎらん」という可憐な花が詩に歌われる。
「いちめんのやなぎらんの群落が
光ともやの紫いろの花をつけ
遠くから近くからけむっている」
私は、この旅で小熊秀雄が書いた「かんぞう」の花は見ることが出来た。宮沢賢治の見た
「やばぎらん」
を見ることはできるのだろうか。
ところで、宮沢賢治はこの年の樺太への旅の途中、北海道で旭川へ立ち寄り、6条13丁目の農事試験場へ立ち寄っている。そして、彼は、「旭川」という印象的な詩を書き残している。そして、その旭川には、当時旭川新聞記者だった小熊秀雄が住んでいた。
旭川駅から、早朝馬車に乗った宮沢賢治が6条13丁目の農事試験場へ向かうとき、通勤途中、もしくは取材で町を闊歩する長髪の小熊秀雄がすれ違わなかったとは言えない。資質が違うとはいえ、詩も童話も書いた二人が、北海道旭川で会ったと想像するだけでも楽しいことになる。しかも、宮沢賢治はこれから樺太へ向かい、小熊秀雄は少年時代の10年を樺太で過ごしたという因縁がある。
コンパートメントに戻ると、酔いが回ってきた高田さんの
「恋物語」
の披露が始まった。檀一雄、太宰治・・・・文学者で波瀾万丈の恋をしなかった人はいない。しかし、高田さんの恋物語は、甲府、東京、京都、旭川をめぐり、その語り口のうまさと、驚くべき大胆な経験、そして実行力により聞く側の我々3人を魅了する。
高田さんの最後の話は、東京で締めくくられる。私は、高田さんの恋ものがたり全体の話に対して敬意を表して、彼に次の歌を詠んで贈った。
-後ろ髪 引かれるごとく 振り返る 真夏の街に 夕陽落ちゆく-
玉井さんが
「また一服しましょうよ」
と私に言う。
通路を抜け、トイレのある場所を抜け、ドアを開けると、列車に乗り込むドアが左右にあるデッキに達する。灰皿が置かれ、薄暗いなかでロシアの人も煙草を吸っている。
私が、ユジノサハリンスクで手に入れてきた「キャメル」を取り出すと、玉井さんに勧める。
揺れる寝台列車の中で、私と玉井さんは、斎藤茂吉の老いらくの恋の歌の話、八木重吉と妻登美子、そして八木重吉亡くなった後に妻登美子が嫁いだ吉野秀雄の話などをする。
そして、宮沢賢治が大正12年(1923)に、我々が今乗車しているこの夜汽車に乗って「銀河鉄道の夜」を着想したのではないかというお話へ変わる。
妹を失った悲しみ・・・。その悲しみを拭い去ることが出来ないままに樺太の旅に出た宮沢賢治。この世にはいない妹と魂の交感を交わしながら詩を作った賢治には、その旅の行きつく所は
「銀河鉄道の夜」
しかなかったのではないか・・・。
ふと、デッキの薄汚れたガラス窓から夜空を見上げると、一面の星空が見えている。
夢の銀河鉄道・・・・。我々はまさにその舞台となった鉄道に乗っているのだ。
82歳の玉井さんと二人、サハリンの夜汽車の薄暗いデッキでたばこを吸いながら文学談義をする・・。これ以上の至福がこの世にあるとは思えない。
今夜は、北緯50度を超える北のアレクサンドロフスクへ向かう寝台列車に乗る。我々は、宮沢賢治が大正12年(1925年)、今から84年前に樺太の旅で乗ったものと同じ列車に乗ることになるのだ。
午後8時、ツーリスト・ホテルからタクシーでユジノサハリンスク駅へ向かった。駅に荷物を置き、玉井さんと高田さんに荷物を任せると、中本さんと私は駅前のレーニン広場にある食料品店で買い物をした。
さほど大きい店ではないが、食糧なら何でもある。ビール8本、ジュース、野菜煮もの、野菜ピクルス、ポテト、にしん酢漬け、タラの揚げ物、肉の揚げ物・、サラミ、黒パン・・。最後に玉井さんのために煙草を二箱買った。
午後8時30分、入線してきた夜行列車に乗り込む。ここユジノサハリンスク駅も、日本のようなプラットホームはなく、地面からよじ登るようにして列車へ入り込む。これに、荷物が加わるので列車に乗り込むこと自体が体力のいる行為となる。
ほぼ満員である。我々4人のコンパートメントに、それぞれの荷物を収める。高田さんが、出発の前に、列車や駅構内の様子をビデオカメラに撮るために外へ出た。しばらくすると、
「ビデオカメラ撮影は禁止と差し止められた」
と言って戻ってくる。コルサコフ港に迎えに来てくれた通訳の女性ヴェスタさんに
「カメラ撮影は、禁止されている場所はありますか?」
と、私が聞くと
「ほとんどの場所は大丈夫ですが、駅の中はだめですね」
と、答えていたのを思い出した。駅が何故撮影禁止なのかはわからない。
つい先ほど、買ってきた飲み物、食糧を取り出し夕食の準備をしていると、私服の警官らしき人が来て、写真入りの身分証明書を差し出して
「駅構内の撮影は禁止です」
と、我々に念を押した。ロシアのサハリン島へ来て以来、コルサコフの港を除けば、警官、軍人の姿を見ることも少なく、何事もなくここまで来た。高田さんはビデオ・カメラ、私は写真撮影を行っているが、私の撮影に関してはこのような規制はいままでのところ一度もない。
午後8時40分、ユジノサハリンスク駅を静かに夜行列車が動き出す。
我々は、ビデオ撮影禁止事件はあったものの、さっそくビールで乾杯し夕食が始まった。私は、相変わらずジュースと水で通し、食べ物だけはたくさん食べる。
トイレへ行こうとすると、通路に立っている中年の男性に
「おはようございます」
と、語りかけられる。午後9時、夕陽が落ち、少しづつ暗くなっている。彼は、日本人とどこかで出会い、「おはようございます」だけを覚えたらしい。彼と、握手をし、私も仕方がないので
「おはようございます」
と、答えた。私より小柄な彼は、こう答えると非常にうれしそうな表情をする。冷たいイメージの先行するロシアという異国ではあっても、やはり、心の温かい人は必ずいる。彼の表情を見ていて、私はそう思った。
外を見ると、湿原地帯が広がり、黄色い花が群生している。
百合の仲間の「かんぞう」である。北海道では「エジカンゾウ」と呼ばれ、6月中旬に咲く花である。サハリンと北海道では一月ほど開花の時期がずれている。
小熊秀雄が大正12年(1923年)に、旭川新聞に書いた「農奴時代」には、この花を「かんぞ」と表現して次のような文章を書いている。
「私はよく彼にまたがって樺太の未懇の大樹林に踏みいった。私の愛馬はことに「かんぞ」の黄色い花弁を好んで食べた。私はそこで馬と同じやうに大きく心室の扉をひらいて崇高な大気に呼吸(いき)した」
この文章に登場する「かんぞ」こそ、今、目の前に広がる湿原に咲く黄色い花である。森の中で、自らをロシア的な呼称で「農奴」とよぶ青年のまたがる青馬は、黄色の花弁の「かんぞ」を食べる。
色彩感に溢れ、ロシア的で、詩的な表現である。そして、異国的な樺太に住んだことのある詩人にしか書けない映像的な表現を自らのものとしている。
そして、小熊秀雄のこの文章と、ほとんど時を同じくして、宮沢賢治は大正12年(1923年)7月末から8月初旬の夏に樺太を訪れ、
「マサニエロ」
「オホーツク挽歌」
「樺太鉄道」
「鈴谷平原」
などの詩が生まれた。やや、時期が違ったせいで、車窓から今、私の目に映る「かんぞう」の花は、宮沢賢治の詩には登場しない。しかし、繰り返し「やなぎらん」という可憐な花が詩に歌われる。
「いちめんのやなぎらんの群落が
光ともやの紫いろの花をつけ
遠くから近くからけむっている」
私は、この旅で小熊秀雄が書いた「かんぞう」の花は見ることが出来た。宮沢賢治の見た
「やばぎらん」
を見ることはできるのだろうか。
ところで、宮沢賢治はこの年の樺太への旅の途中、北海道で旭川へ立ち寄り、6条13丁目の農事試験場へ立ち寄っている。そして、彼は、「旭川」という印象的な詩を書き残している。そして、その旭川には、当時旭川新聞記者だった小熊秀雄が住んでいた。
旭川駅から、早朝馬車に乗った宮沢賢治が6条13丁目の農事試験場へ向かうとき、通勤途中、もしくは取材で町を闊歩する長髪の小熊秀雄がすれ違わなかったとは言えない。資質が違うとはいえ、詩も童話も書いた二人が、北海道旭川で会ったと想像するだけでも楽しいことになる。しかも、宮沢賢治はこれから樺太へ向かい、小熊秀雄は少年時代の10年を樺太で過ごしたという因縁がある。
コンパートメントに戻ると、酔いが回ってきた高田さんの
「恋物語」
の披露が始まった。檀一雄、太宰治・・・・文学者で波瀾万丈の恋をしなかった人はいない。しかし、高田さんの恋物語は、甲府、東京、京都、旭川をめぐり、その語り口のうまさと、驚くべき大胆な経験、そして実行力により聞く側の我々3人を魅了する。
高田さんの最後の話は、東京で締めくくられる。私は、高田さんの恋ものがたり全体の話に対して敬意を表して、彼に次の歌を詠んで贈った。
-後ろ髪 引かれるごとく 振り返る 真夏の街に 夕陽落ちゆく-
玉井さんが
「また一服しましょうよ」
と私に言う。
通路を抜け、トイレのある場所を抜け、ドアを開けると、列車に乗り込むドアが左右にあるデッキに達する。灰皿が置かれ、薄暗いなかでロシアの人も煙草を吸っている。
私が、ユジノサハリンスクで手に入れてきた「キャメル」を取り出すと、玉井さんに勧める。
揺れる寝台列車の中で、私と玉井さんは、斎藤茂吉の老いらくの恋の歌の話、八木重吉と妻登美子、そして八木重吉亡くなった後に妻登美子が嫁いだ吉野秀雄の話などをする。
そして、宮沢賢治が大正12年(1923)に、我々が今乗車しているこの夜汽車に乗って「銀河鉄道の夜」を着想したのではないかというお話へ変わる。
妹を失った悲しみ・・・。その悲しみを拭い去ることが出来ないままに樺太の旅に出た宮沢賢治。この世にはいない妹と魂の交感を交わしながら詩を作った賢治には、その旅の行きつく所は
「銀河鉄道の夜」
しかなかったのではないか・・・。
ふと、デッキの薄汚れたガラス窓から夜空を見上げると、一面の星空が見えている。
夢の銀河鉄道・・・・。我々はまさにその舞台となった鉄道に乗っているのだ。
82歳の玉井さんと二人、サハリンの夜汽車の薄暗いデッキでたばこを吸いながら文学談義をする・・。これ以上の至福がこの世にあるとは思えない。
2009年08月02日
サハリン島-詩人たちへの旅-12・小熊秀雄文学座談会
2009年7月12日土曜日、ユジノサハリンスク。旅に出て4日目になる。
ハードな旅が続いている。公式訪問、車での長距離移動。深夜の夜汽車、人々との出会い・・・。
我々を待ち受けているものは、サハリンの一日が日本での数日分に相当するような日程となっている。
初日に、我々旭川組2名と東京組2名が再会を果たしたユジノサハリンスクのツーリスト・ホテルへ戻っている。今朝も4人は元気で朝食を食べた。
4人が旅でのそれぞれの役割を果たしている。
リーダーは、やはり、ロシアのの経験が飛び抜けて豊富で、ロシア語が出来、すべての交渉ができる中本さんである。玉井さんは豊富な文学的知識を披露しながらの大御所的な存在。高田さんは、文学の旅という目的の旅の4人の中では異色な経済人であった経験。若き頃のマスコミでの経験からくるフットワークの軽さ。物事を論理的思考で捉える読みの深さで我々を支えている。
私は、単なる文学好きであるだけだが、この4人グループの中では最年少。それを生かして、どこでも、エレベーターのない場所では荷物運びをしている。また、玉井さんの喫煙の際には、必ず外へ同行している。さらには、買い出しの際にも重いビールなどを運んでいる。
ところで、問題が起きた。
中本さんが、起きたばかりの時、今回の次の目的地アレクサンドロフスクへ向かう寝台列車の切符をチェックしていた。
「宮川さん、今日の夜の寝台列車はいいのですが、明後日の帰りの寝台列車の切符、つまり14日の夜でなければならないのに、13日、つまり明日の夜の帰りの寝台列車が予約されている。困ったねえ」
大変なことである。もし、そのまま中本さんが気がつかなければ、明後日14日に寝台列車に乗り込んだ時に、我々の予約してあるコンパートメントはないことになる。
中本さんは、早速、海外で使える仕様の携帯電話を持ち出し、今回の我々の旅をサポートしてる通訳
「ヴェスタ・ザビェーリナ」
さんへ電話した。ヴェスタさんは、高田さんと私をコルサコフ(大泊)まで迎えに来てくれた女性である。
彼女はすぐに調べて、ミスであることを確認し、朝食を食べている我々の元へ14日21時4分ティモスク発-15日早朝7時40分ユジノサハリンスク着切符を届けてくれた。
しかし、行きは我々4人だけのコンパートメントであるが、帰りはこのミスが会ったため、一つのコンパートメントは取れず、全員が上段に寝なければならない事態となった。
私はともかく、3人の方々にとっては、寝台列車の上段へ登ることが大変である。しかも、夜中にトイレに行くこと、落下の危険があることが予想される。当然、私は、行きも帰りも上段に寝ようと思ってるが、帰りの寝台は、3人にとってはなかなかきつい状況となった。
のんびりと、朝食を食べた後、スッキリと晴れているユジノサハリンスクの町へ出た。コルサコフ、ホルムスク、そしてトマリの町に比べると車が圧倒的的に多い。しかし、通りには樹木が多く、夏と言うのに爽やかで歩きやすい。
まず、初日に行けなかった
「歴史博物館」
に行った。東洋風の大きな建物は、日本の樺太庁時代の博物館をそのまま利用している。建造は1938年。
建物の前には、大きな円形の噴水があり、子供連れの家族の憩いの場所となっている。この脇には、日本時代の大砲が2門置かれ、一つには
「明治37.38年戦没記念海軍大将片岡七郎銘」
と読み取れる。明治37.38年とは日露戦争の開戦と終戦の年である。ロシアにとっては屈辱の2年であるが、これを置いて置くことに対する抵抗はないようだ。
玄関前では狛犬が我々を迎え、重厚で大きな黒い扉が印象的である。
70年を越える古い貴重な建物である。中へ入ると、銃口ではあるが、どこか日本的な雰囲気の建築であることがよくわかる。
クリール諸島、千島列島を含むサハリン州の自然、歴史、文化、産業、さらには軍事的な展示も見られる。
意外なことは、日本の日露戦争の樺太支配から1945年の終戦にいたる日本人の生活の実態することができるコーナーが充実していることである。また北緯50度の旧-日露国境の標石を見ることが出来た。
歴史博物館を出て、駅へ向かいながらレストランを探す。午後1時を過ぎている。しかし、レストランの数は極端に少なく、あったとしても飲み物だけしか出さないところもある。
駅前のレーニン広場では、夜の寝台列車に乗り込む時の食糧、ビールの買い出しにぴったりの店を見つけた。しかし、レストランは見つからず、結局、2004年に高田さんが経済交流でユジノサハリンスクを訪れた時に泊まったという
「サハリン・サッポロ」
というホテル内にあるレストランに入った。値段はかなり高めだが、これだけ歩いて適当なものが見つからなったのだから、仕方がないだろう。
中本さんが
「父は旅の間は、できるだけいいホテルに泊り、最高のものに触れろ」
と、言っていましたと我々に言った。私は、その言葉を現実には実行できないところが多々あるが、その精神はよくわかる。
聞くところによると、中本さんのお父さんはすでに亡くなっているが、お母さんは百歳になろうとしているが、お元気である。
当然の如く、3人の方々は料理の来る前にビールで乾杯である。私は、いつも同じオレンジ、アップル、グレープフルーツではなく、ロシアらしいジュースを頼もうと思った。
ガイドブックによると、グランベリー、ラズベリー、チェリーなどをつぶして作った「モルス」というジュースがある。ウエイトレスに
「モルス パジャールスタ」
と言うとすぐに通じた。「パジャールスタ」は「お願いします」という意味のロシア語である。簡単なロシア語ならばどうにか通じるということが、私の自信となってきた。
午後4時、ツーリスト・ホテルへ帰った。アレクサンドロフスクへ行くために乗る寝台列車の出発の午後8時40分までにはまだかなり時間がある。
そこで、全員の合意で寝台列車に乗り込む前に、この旅の間に数回にわたって行おうと目論んできた
「文学座談会」
をやろうという事になった。時間はまたたっぷりとある。
第1回は、
「詩人小熊秀雄」
である。司会、進行は高田さんが行う。
まず、「小熊秀雄全集」全5巻を出版、大きな業績を残し、現在も東京で「小熊秀雄協会」と「池袋モンパルナスの会」の会長を務めている玉井さんのお話から始まった。個人的な小熊の詩との出会い、その後の全集出版への経緯などを話されたが、今回、小熊が少年時代を過ごした泊居を訪れ旧-王子製紙工場跡を見た時の印象を
「鬼気迫る廃墟」
と表現されたことについてお聞きすると、詩人であり、建築家でもあった立原道造のことばを引用し、
「立原は、-建築は、最後の姿にすべてが象徴される-と、言っていますが、まさに泊居の王子製紙の廃墟にこの言葉を感じました」
と、語ってくれました。
「建築は、最後の姿にすべてが象徴される」
わたしは、この言葉を知らなかった。しかし、何か深い響きをもって私に迫るものを感じた。
ほぼ同時代に生きていた小熊秀雄と立原道造はその資質の違いから、接点は見いだせないが、玉井さんにより、泊居でこの言葉が聞けたことは素晴らしいことだったと感じた。
次いで、私が、小熊秀雄の樺太の少年時代を書いた詩
「トンボは北へ、私は南へ」
「白い夜」
そして、高田さんが
「馬の胴体の中で考えていたい」
を朗読した。高田さんが選んだ最後の詩は、樺太と言うことが明確に分かる詩ではないが、泊居を訪問した我々には
「ふるさとの馬よ」
「郷里」
という言葉が、どう見ても樺太のあの村であることが汲み取れる。高田さんの適切な、素晴らしい選択眼であった。
中本さんは、小熊と親交のあったロシア文学者湯浅芳子さんとの出会い、そして湯浅さんから小熊の妻・小熊つね子さんの住所をお教わり訪ねたこと、中野重治の小熊追悼詩「古今的・新古今的」に関すること、中本さんのロシア留学と、友人アナトーリ・マモーノフ氏による小熊の詩のロシア語訳の本の出版経緯、トルコの詩人ヒクメットとの出会いを語って頂いた。
最後には、詩人小熊秀雄を日本、ロシア、そして世界の人々へ伝える意味の大きさを語って頂き、中本さんの小熊秀雄との出会いの経緯、そして、今後の展望が希望となるように思えた。
今後のハードな日程のなかで二回目の文学座談会ができるかどうかは分からない。しかし、とにかくこうして
「第1回 文学座談会 詩人小熊秀雄を語る」
を、終えることが出来た。
ハードな旅が続いている。公式訪問、車での長距離移動。深夜の夜汽車、人々との出会い・・・。
我々を待ち受けているものは、サハリンの一日が日本での数日分に相当するような日程となっている。
初日に、我々旭川組2名と東京組2名が再会を果たしたユジノサハリンスクのツーリスト・ホテルへ戻っている。今朝も4人は元気で朝食を食べた。
4人が旅でのそれぞれの役割を果たしている。
リーダーは、やはり、ロシアのの経験が飛び抜けて豊富で、ロシア語が出来、すべての交渉ができる中本さんである。玉井さんは豊富な文学的知識を披露しながらの大御所的な存在。高田さんは、文学の旅という目的の旅の4人の中では異色な経済人であった経験。若き頃のマスコミでの経験からくるフットワークの軽さ。物事を論理的思考で捉える読みの深さで我々を支えている。
私は、単なる文学好きであるだけだが、この4人グループの中では最年少。それを生かして、どこでも、エレベーターのない場所では荷物運びをしている。また、玉井さんの喫煙の際には、必ず外へ同行している。さらには、買い出しの際にも重いビールなどを運んでいる。
ところで、問題が起きた。
中本さんが、起きたばかりの時、今回の次の目的地アレクサンドロフスクへ向かう寝台列車の切符をチェックしていた。
「宮川さん、今日の夜の寝台列車はいいのですが、明後日の帰りの寝台列車の切符、つまり14日の夜でなければならないのに、13日、つまり明日の夜の帰りの寝台列車が予約されている。困ったねえ」
大変なことである。もし、そのまま中本さんが気がつかなければ、明後日14日に寝台列車に乗り込んだ時に、我々の予約してあるコンパートメントはないことになる。
中本さんは、早速、海外で使える仕様の携帯電話を持ち出し、今回の我々の旅をサポートしてる通訳
「ヴェスタ・ザビェーリナ」
さんへ電話した。ヴェスタさんは、高田さんと私をコルサコフ(大泊)まで迎えに来てくれた女性である。
彼女はすぐに調べて、ミスであることを確認し、朝食を食べている我々の元へ14日21時4分ティモスク発-15日早朝7時40分ユジノサハリンスク着切符を届けてくれた。
しかし、行きは我々4人だけのコンパートメントであるが、帰りはこのミスが会ったため、一つのコンパートメントは取れず、全員が上段に寝なければならない事態となった。
私はともかく、3人の方々にとっては、寝台列車の上段へ登ることが大変である。しかも、夜中にトイレに行くこと、落下の危険があることが予想される。当然、私は、行きも帰りも上段に寝ようと思ってるが、帰りの寝台は、3人にとってはなかなかきつい状況となった。
のんびりと、朝食を食べた後、スッキリと晴れているユジノサハリンスクの町へ出た。コルサコフ、ホルムスク、そしてトマリの町に比べると車が圧倒的的に多い。しかし、通りには樹木が多く、夏と言うのに爽やかで歩きやすい。
まず、初日に行けなかった
「歴史博物館」
に行った。東洋風の大きな建物は、日本の樺太庁時代の博物館をそのまま利用している。建造は1938年。
建物の前には、大きな円形の噴水があり、子供連れの家族の憩いの場所となっている。この脇には、日本時代の大砲が2門置かれ、一つには
「明治37.38年戦没記念海軍大将片岡七郎銘」
と読み取れる。明治37.38年とは日露戦争の開戦と終戦の年である。ロシアにとっては屈辱の2年であるが、これを置いて置くことに対する抵抗はないようだ。
玄関前では狛犬が我々を迎え、重厚で大きな黒い扉が印象的である。
70年を越える古い貴重な建物である。中へ入ると、銃口ではあるが、どこか日本的な雰囲気の建築であることがよくわかる。
クリール諸島、千島列島を含むサハリン州の自然、歴史、文化、産業、さらには軍事的な展示も見られる。
意外なことは、日本の日露戦争の樺太支配から1945年の終戦にいたる日本人の生活の実態することができるコーナーが充実していることである。また北緯50度の旧-日露国境の標石を見ることが出来た。
歴史博物館を出て、駅へ向かいながらレストランを探す。午後1時を過ぎている。しかし、レストランの数は極端に少なく、あったとしても飲み物だけしか出さないところもある。
駅前のレーニン広場では、夜の寝台列車に乗り込む時の食糧、ビールの買い出しにぴったりの店を見つけた。しかし、レストランは見つからず、結局、2004年に高田さんが経済交流でユジノサハリンスクを訪れた時に泊まったという
「サハリン・サッポロ」
というホテル内にあるレストランに入った。値段はかなり高めだが、これだけ歩いて適当なものが見つからなったのだから、仕方がないだろう。
中本さんが
「父は旅の間は、できるだけいいホテルに泊り、最高のものに触れろ」
と、言っていましたと我々に言った。私は、その言葉を現実には実行できないところが多々あるが、その精神はよくわかる。
聞くところによると、中本さんのお父さんはすでに亡くなっているが、お母さんは百歳になろうとしているが、お元気である。
当然の如く、3人の方々は料理の来る前にビールで乾杯である。私は、いつも同じオレンジ、アップル、グレープフルーツではなく、ロシアらしいジュースを頼もうと思った。
ガイドブックによると、グランベリー、ラズベリー、チェリーなどをつぶして作った「モルス」というジュースがある。ウエイトレスに
「モルス パジャールスタ」
と言うとすぐに通じた。「パジャールスタ」は「お願いします」という意味のロシア語である。簡単なロシア語ならばどうにか通じるということが、私の自信となってきた。
午後4時、ツーリスト・ホテルへ帰った。アレクサンドロフスクへ行くために乗る寝台列車の出発の午後8時40分までにはまだかなり時間がある。
そこで、全員の合意で寝台列車に乗り込む前に、この旅の間に数回にわたって行おうと目論んできた
「文学座談会」
をやろうという事になった。時間はまたたっぷりとある。
第1回は、
「詩人小熊秀雄」
である。司会、進行は高田さんが行う。
まず、「小熊秀雄全集」全5巻を出版、大きな業績を残し、現在も東京で「小熊秀雄協会」と「池袋モンパルナスの会」の会長を務めている玉井さんのお話から始まった。個人的な小熊の詩との出会い、その後の全集出版への経緯などを話されたが、今回、小熊が少年時代を過ごした泊居を訪れ旧-王子製紙工場跡を見た時の印象を
「鬼気迫る廃墟」
と表現されたことについてお聞きすると、詩人であり、建築家でもあった立原道造のことばを引用し、
「立原は、-建築は、最後の姿にすべてが象徴される-と、言っていますが、まさに泊居の王子製紙の廃墟にこの言葉を感じました」
と、語ってくれました。
「建築は、最後の姿にすべてが象徴される」
わたしは、この言葉を知らなかった。しかし、何か深い響きをもって私に迫るものを感じた。
ほぼ同時代に生きていた小熊秀雄と立原道造はその資質の違いから、接点は見いだせないが、玉井さんにより、泊居でこの言葉が聞けたことは素晴らしいことだったと感じた。
次いで、私が、小熊秀雄の樺太の少年時代を書いた詩
「トンボは北へ、私は南へ」
「白い夜」
そして、高田さんが
「馬の胴体の中で考えていたい」
を朗読した。高田さんが選んだ最後の詩は、樺太と言うことが明確に分かる詩ではないが、泊居を訪問した我々には
「ふるさとの馬よ」
「郷里」
という言葉が、どう見ても樺太のあの村であることが汲み取れる。高田さんの適切な、素晴らしい選択眼であった。
中本さんは、小熊と親交のあったロシア文学者湯浅芳子さんとの出会い、そして湯浅さんから小熊の妻・小熊つね子さんの住所をお教わり訪ねたこと、中野重治の小熊追悼詩「古今的・新古今的」に関すること、中本さんのロシア留学と、友人アナトーリ・マモーノフ氏による小熊の詩のロシア語訳の本の出版経緯、トルコの詩人ヒクメットとの出会いを語って頂いた。
最後には、詩人小熊秀雄を日本、ロシア、そして世界の人々へ伝える意味の大きさを語って頂き、中本さんの小熊秀雄との出会いの経緯、そして、今後の展望が希望となるように思えた。
今後のハードな日程のなかで二回目の文学座談会ができるかどうかは分からない。しかし、とにかくこうして
「第1回 文学座談会 詩人小熊秀雄を語る」
を、終えることが出来た。
2009年08月01日
サハリン島-詩人たちへの旅-11. 中本さんのロシアへの想い
午後7時45分、トマリ(旧-泊居)を出た列車はチェーホフ(旧-野田)に到着した。夕陽が次第に傾き、曇りの続いてたサハリンにも夏の日差しが戻っている。
夕暮れの列車は、意外と乗客が多く、ロシア語が周囲を飛び交っている。若い恋人たち、友人たちのグループ、中年夫婦、一人ものなどである。今朝の深夜の夜行列車に比べると、信じられないほどの賑わいである。
ロシア文学者で、チェーホフの専門家である中本さんは、このチェーホフの町を何度も訪れている。停車時間は、ほんの2~3分であるが
駅のすぐ脇に
「チェーホフの胸像」
が、あることを知っている中本さんは、私を誘い、二人で列車を降りた。私は、カメラを構えると素早く夕陽に照らされているその胸像を撮影した。
一緒に降りた若い乗客が、微笑みながら私を見ている。
1890年にサハリンを訪れたチェーホフは、アレクサンドロフスクに2ケ月、コルサコフに1か月滞在した。つまり、このチェーホフと言う町は、チェーホフには何の縁もないのだが、40年ぶりに日本からロシアとなった1945年にこの名となったらしい。サハリンに限らずロシアでは通りの名に、レーニン、チエーホフなどの人名を使っている。
斜光線に照らされたチェーホフ像は美しかった。しかし、時間が十分ではない。2~3枚写すとすぐに列車へ戻った。
女性の車掌が、外に出て中本さんと私に急ぐようにと怒鳴っている。中本さんに正式に許可したはずだが、何か手違いがあったのだろうか。
ともあれ、中本さんの情熱と助けにより、サハリンにはたくさんある
「チェーホフ像」
の中でも傑出した作品と言われるチエーホフ(旧-野田)駅前の像の撮影に成功した。
中本さんのロシア、そしてチェーホフへ対する想いの深さを、旅が進むにつれて思い知らされている。一生をロシアに賭け、現在も行動を続けている中本さん、その人と旅することの意味の深さを私は、ひしひしと感じている。
午後9時2分、間宮海峡に夕陽が落ちようとする頃、ホルムスク・セペロ駅に着いた。今日の午前3時、暗い深夜にこの駅を出発、トマリへ向かったばかりの駅に、再び戻ってきたのだ。
駅の外へ出ようとするとき、
「サーシャさん」
が、笑いながら我々に手を振っている。昨日、ユジノサハリンスクからここホルムスクへ送った彼は、一度、ユジノサハリンスクへ戻り、再び我々を迎えるためにホルムスクへ来ていてくれたのだ。
玉井さんが
「出発する前に一服を!」
と
申し出て、駅前で私も付き合って煙草を吸う。すると、サーシャさんも煙草を取り出し、我々に付き合っている。彼が煙草を吸うのは、サハリンへ来て以来初めて知ったように思う。玉井さんは
「仲間が増えた」
と言って、ますますにこやかになる。玉井さんは、何といっても82歳、今日の早朝からのハード・スケジュールによく耐えている。いや、もう耐えるというよりは、詩人小熊秀雄の原点ともいうべき泊居をたずねて、その圧倒的な印象に心躍っているという状態である。
玉井さんと私とは25歳余りの年齢の差があるのだが、私は25年後に、このような旅に出る気力と体力があるだろうかと自分に問いかける。そうありたいとは願っても、それが実現できるという自信はない。しかし、この旅で、玉井さん、中本さん、高田さんが私に示している行動力と知性をしっかりと受け止め、今後も見習いたいものだなと感じているのは確かだ。
サーシャさんの運転する車が、ホルムスクからユジノサハリンスクへ走り始めた。熊笹峠を超える頃に、夕陽が完全に落ち、闇が次第に濃くなってきた。
今日一日を過ごした泊居の話、サハリンの車の話などをしているうちに、午後10時30分ユジノサハリンスクに着いた。
すぐに、レストランへ行き夕食を食べた。今日は、トマリの「桜」で昼食を取っただけで、あまりちゃんとした食事を食べていなかったのである。
今晩の部屋割は、私と中本さん、玉井さんと高田さんという組み合わせとなった。
中本さんと、少しだけお話をする。幾つもの興味深いお話があった。中でも
「写真家星野道夫」
とは友人だった事を知る。中本さんがアラスカへオーロラを見る旅に出た時に、星野道夫と出会い、その後、親交を深めていたという。このお話は、後日、もう少し詳しく聞きたいと思った。他には
「東京外国語大学の卒論は、チェーホフではなく作家ガルシンであったこと」
「人間の条件という映画の撮影を行った宮島義男」
「ロシアを共に旅した混田亨という写真家」
「小西松太郎というロシア文学者」
「アラスカ大学の日本文学研究家カレン・コリガン教授のこと」
「野間宏の誠実さ」
「太宰の友人-山岸外史のこと-風雪に耐えるのは亀井勝一郎よりは山岸」
「ロシア映画-鶴は翔んでゆく(戦争と貞操)」
などについてお話しいただいた。私は名前やタイトルのみで十分には知らないことが多く、帰国してから、調べたり、読んだり、見たりしようと思った。
日本を代表する知性と行動力を兼ね備えた中本さん、彼から受ける深い示唆に満ちた一日の終わりだった。
夕暮れの列車は、意外と乗客が多く、ロシア語が周囲を飛び交っている。若い恋人たち、友人たちのグループ、中年夫婦、一人ものなどである。今朝の深夜の夜行列車に比べると、信じられないほどの賑わいである。
ロシア文学者で、チェーホフの専門家である中本さんは、このチェーホフの町を何度も訪れている。停車時間は、ほんの2~3分であるが
駅のすぐ脇に
「チェーホフの胸像」
が、あることを知っている中本さんは、私を誘い、二人で列車を降りた。私は、カメラを構えると素早く夕陽に照らされているその胸像を撮影した。
一緒に降りた若い乗客が、微笑みながら私を見ている。
1890年にサハリンを訪れたチェーホフは、アレクサンドロフスクに2ケ月、コルサコフに1か月滞在した。つまり、このチェーホフと言う町は、チェーホフには何の縁もないのだが、40年ぶりに日本からロシアとなった1945年にこの名となったらしい。サハリンに限らずロシアでは通りの名に、レーニン、チエーホフなどの人名を使っている。
斜光線に照らされたチェーホフ像は美しかった。しかし、時間が十分ではない。2~3枚写すとすぐに列車へ戻った。
女性の車掌が、外に出て中本さんと私に急ぐようにと怒鳴っている。中本さんに正式に許可したはずだが、何か手違いがあったのだろうか。
ともあれ、中本さんの情熱と助けにより、サハリンにはたくさんある
「チェーホフ像」
の中でも傑出した作品と言われるチエーホフ(旧-野田)駅前の像の撮影に成功した。
中本さんのロシア、そしてチェーホフへ対する想いの深さを、旅が進むにつれて思い知らされている。一生をロシアに賭け、現在も行動を続けている中本さん、その人と旅することの意味の深さを私は、ひしひしと感じている。
午後9時2分、間宮海峡に夕陽が落ちようとする頃、ホルムスク・セペロ駅に着いた。今日の午前3時、暗い深夜にこの駅を出発、トマリへ向かったばかりの駅に、再び戻ってきたのだ。
駅の外へ出ようとするとき、
「サーシャさん」
が、笑いながら我々に手を振っている。昨日、ユジノサハリンスクからここホルムスクへ送った彼は、一度、ユジノサハリンスクへ戻り、再び我々を迎えるためにホルムスクへ来ていてくれたのだ。
玉井さんが
「出発する前に一服を!」
と
申し出て、駅前で私も付き合って煙草を吸う。すると、サーシャさんも煙草を取り出し、我々に付き合っている。彼が煙草を吸うのは、サハリンへ来て以来初めて知ったように思う。玉井さんは
「仲間が増えた」
と言って、ますますにこやかになる。玉井さんは、何といっても82歳、今日の早朝からのハード・スケジュールによく耐えている。いや、もう耐えるというよりは、詩人小熊秀雄の原点ともいうべき泊居をたずねて、その圧倒的な印象に心躍っているという状態である。
玉井さんと私とは25歳余りの年齢の差があるのだが、私は25年後に、このような旅に出る気力と体力があるだろうかと自分に問いかける。そうありたいとは願っても、それが実現できるという自信はない。しかし、この旅で、玉井さん、中本さん、高田さんが私に示している行動力と知性をしっかりと受け止め、今後も見習いたいものだなと感じているのは確かだ。
サーシャさんの運転する車が、ホルムスクからユジノサハリンスクへ走り始めた。熊笹峠を超える頃に、夕陽が完全に落ち、闇が次第に濃くなってきた。
今日一日を過ごした泊居の話、サハリンの車の話などをしているうちに、午後10時30分ユジノサハリンスクに着いた。
すぐに、レストランへ行き夕食を食べた。今日は、トマリの「桜」で昼食を取っただけで、あまりちゃんとした食事を食べていなかったのである。
今晩の部屋割は、私と中本さん、玉井さんと高田さんという組み合わせとなった。
中本さんと、少しだけお話をする。幾つもの興味深いお話があった。中でも
「写真家星野道夫」
とは友人だった事を知る。中本さんがアラスカへオーロラを見る旅に出た時に、星野道夫と出会い、その後、親交を深めていたという。このお話は、後日、もう少し詳しく聞きたいと思った。他には
「東京外国語大学の卒論は、チェーホフではなく作家ガルシンであったこと」
「人間の条件という映画の撮影を行った宮島義男」
「ロシアを共に旅した混田亨という写真家」
「小西松太郎というロシア文学者」
「アラスカ大学の日本文学研究家カレン・コリガン教授のこと」
「野間宏の誠実さ」
「太宰の友人-山岸外史のこと-風雪に耐えるのは亀井勝一郎よりは山岸」
「ロシア映画-鶴は翔んでゆく(戦争と貞操)」
などについてお話しいただいた。私は名前やタイトルのみで十分には知らないことが多く、帰国してから、調べたり、読んだり、見たりしようと思った。
日本を代表する知性と行動力を兼ね備えた中本さん、彼から受ける深い示唆に満ちた一日の終わりだった。
2009年07月31日
サハリン島-詩人たちへの旅-10.泊居-詩人の故郷
レストラン「桜」を出て、女性経営者リーリアさん、運転者ニコライさん、彼の妻オリガさん、日本通の女性セヴェタさん達に別れを告げた。公式の訪問ではなかっただけに、泊居で出会った多くのロシア人の生の姿を垣間見たように思った。小熊秀雄が少年時代を過ごした泊居に、一週間でも過ごすことができれば、また、さらに何か新しいロシアの姿が我々の心に刻みつけられるかも知れない。
「ロシアの人は、酒が強いね」
高田さんは、ニコライさんに勧められたアルメニア・コニャアックを随分と気に入ったようだ。
中本、玉井さんも、進められたコニャックをかなり飲んだようだが、足元はまったく不安がない。彼ら3人は、アルコールを飲むほどに元気になるのである。
館長ソコローバさんと共に、再び歩いて文化会館へ戻る。
道すがら、玉井さんが私にこんなことを言った。
「1970年代の中頃、小熊秀雄全集を出すことを決意し、その準備や資料集めをしていた頃、よく、小熊の奥さんのつね子さんに会ったのです。
それで、ある時こう言われました。
玉井さん、あなは何年生まれですか?」
玉井さんは、大正15年(1926年)生まれである。全集にとりかかっていた当時は50代中頃だった。そのことを告げると、つね子さんは、こう言ったそうだ。
「あら、焔も大正15年生まれよ。玉井さんと焔は同じ年なんですね。生きていれば、あなたのような年ごろなのね」
そう言うと、感慨深そうにつね子さんは玉井さんの顔を覗いたそうである。
小熊秀雄と妻つね子、そして息子焔の一家の運命は次のように推移している。
大正13年(1924年)10月、小熊秀雄と崎本つね子は、旭川で行われたカムシュペ画会会場で出会った。当時、小熊秀雄は旭川新聞記者、つね子は神居小学校音楽担当の教員だった。
そして翌年の大正14年(1925年)2月、出会ってたった4カ月余りで二人は結婚。次いで、同年4月、小熊は旭川新聞社を退社、」二人は上京する。
しかし、前年に画家高橋北修と上京した時に、昇曙夢や湯浅芳子の助けで「焼かれた魚」が「愛国婦人」という雑誌に掲載されたとはいえ、二人で4月から7月まで東京で過ごしだけで、小熊は詩人として立つことはできず、7月に旭川へ戻り、姉の家へ滞在する。
さらに、同年9月、小熊は妊娠中の妻を伴い小樽から樺太の父の住む泊居へ赴く。
そして、ここ泊居で翌年の大正15年(1926年)1月5日に生まれたのが、小熊夫妻の一人息子
「焔」
だった。
おそらく、日本国中を探しても、息子に「焔」という名を付けた親はいなかっただろう。一字だけ、しかも、燃え盛る焔のイメージ。いかにも小熊らしいと私は思っている。
その、小熊の長男「焔」は、昭和3年((1928年)6月、両親とともに旭川を出て上京、その後、東京で貧困のうちに少年時代を過ごす。昭和15年(1939年)11月20日に、東京池袋の東荘アパートで39歳の父小熊秀雄が亡くなった後、昭和20年(1945年)8月25日、父と同じ結核のため死去。20歳だった。中学校の理科の助手をしていたという。
詩人が家族に与えた運命は、苛酷であった。妻のつね子さんは、孤独のままに1982年1月31日79歳で亡くなった。
中本さんは1958年に、小熊つね子さんい会っている。私は全集が出始めた1978年につね子さんに会ってお話を聞いている。
つまり、今回のサハリンへの旅のメンバー4人中3名が、生前の小熊つね子に会い、お話を聞いている。サハリンの旅へ向かう男たちの詩人小熊秀雄への思い入れの深さが、ここにも表れている。
「この泊居は、焔君の本当の生まれ故郷なんですね。しかも、玉井さんと同じ大正15年生まれですか。焔君が生きていて、ここにいる可能性もあったのすね」
私がそう言うと、玉井さんは何度も何度も頷く。
何故、小熊夫妻は、焔君の出産のために旭川から遠い泊居に赴いたのだろう。しかも、そこには小熊とは性格的に全く合わない継母ナカがいる。つね子さんも三木家の居心地が良かったと思えない。
実際、失業していた小熊は、肺尖で微熱が続き、継母ナカとは折り合いが悪く、妻つね子さんを一人泊居へ残して旭川へ戻る。小熊は旭川新聞へ復職。妻子は、大正15年2月に旭川の小熊の元へ戻る。
こうして、上京から旭川、そして泊居へとい経緯を見ても、小熊夫妻が、旭川の姉の家で焔君の出産をすることを選択しなかったことには、どう見ても疑問が残る。
当時、小熊の義理の妹チエが、泊居から姉ハツを頼って旭川へ来ていた。しかも、チエは、小熊の父三木清次郎の子供を宿し、姉ハツの家で娘栄子を生んだばかりであった。つまり、姉ハツの嫁ぎ先である津村家は、小熊を巡り妹をめぐり大変な状況だっただろうと想像される。姉ハツは、小熊夫妻の出産を受け入れる余裕は、全くなかったのだろう。
経緯はともかく、泊居は、小熊秀雄の息子焔の生地であるのは確かな事実だった。
文化会館に入ると、一階のホールでは近々行われる音楽祭の練習が行われている。我々は、しばらく、それを見学してから、二階の図書館で、本に囲まれて少しの間休んだ。
午後6時、玉井さんと私は一足先に文化会館の前で、駅まで送ってくれることになった郷土博物館長の朝鮮人のジョーさんとお話をした。
ジョーさんはロシア語しかできない。つまり、私は、ロシア語の会話の本を取り出し
「何歳ですか」
などという、幾つかの単純な質問をする。質問はしても、ジョーさんのロシ語での答えが私には理解できない。そうすると、ジョーさんは、
「1949」
と、地面に書く。つまり、現在は2009年であるから、彼はちょうど60歳ということになる。
玉井さんも私も随分と驚いたく。髪の黒さ、敏捷な体の動き、どれをとっても、40代だと思っていたのである。私より彼は年齢が上の人だった。
それにしても、ジョーさんの思いやりに満ちたこの雰囲気は一体どこから来るのだろうか。
中本さんがロシアの国賓待遇の方であるとか、我々がめったにない郷土博物館への外国からの訪問者であるとか、義理から親切心と言うのではない。表情から体全体に現れる温かさが、彼にはあるのだった。
夕暮れの光が我々を包み、周囲には、庭の花を摘む少女たちがいる。
しばらくすると、中本さんと高田さんが、ソコローバさんと一緒に玄関から出てくる。中本さんにばかりロシア語を任せているのは申し訳ないと感じていた私は、会話の本を見ながら
「本当にありがとうございました。お元気でいてください。また、お会いするの楽しみにしています」
と、館長のソコローバさんに告げた。やや長いが、ほとんど、カタカナをアクセントに注意して読んだだけである。
そうすると、ソコローバさんの顔が微笑みで満ちた。どうやら、私のロシア語が通じたのである。
言葉は人と人の心をつなぐ、それを実感する瞬間だった。
また、会うことを約束しながら、見送る人々に手を振って車に乗った我々はトマリ駅へ向かった。運転は、ジョーさんである。
午後18時40分、列車はホルムスクへ向かって動き出した。ジョーさんは、トマリ駅のホームで我々に手を振っている。
早朝、泊居神社で会った朝鮮人の夫妻といい、見送りに来て下さったジョーさんといい、泊居は朝鮮人との出会いの場所でもあった。
早朝の午前5時30分にトマリ駅についてから、12時間以上が経過した。電車は、すでに駅を出た。
詩人の故郷から、我々は少しづつ離れつつある。旧-王子製紙の廃墟の高い煙突が、トマリの家並みの向こうに見えてる。
たった一日、しかし、詩人小熊秀雄の泊居で過ごした少年時代の10年の幻を求める積年の想いを果たす長い一日が終わった。
「ロシアの人は、酒が強いね」
高田さんは、ニコライさんに勧められたアルメニア・コニャアックを随分と気に入ったようだ。
中本、玉井さんも、進められたコニャックをかなり飲んだようだが、足元はまったく不安がない。彼ら3人は、アルコールを飲むほどに元気になるのである。
館長ソコローバさんと共に、再び歩いて文化会館へ戻る。
道すがら、玉井さんが私にこんなことを言った。
「1970年代の中頃、小熊秀雄全集を出すことを決意し、その準備や資料集めをしていた頃、よく、小熊の奥さんのつね子さんに会ったのです。
それで、ある時こう言われました。
玉井さん、あなは何年生まれですか?」
玉井さんは、大正15年(1926年)生まれである。全集にとりかかっていた当時は50代中頃だった。そのことを告げると、つね子さんは、こう言ったそうだ。
「あら、焔も大正15年生まれよ。玉井さんと焔は同じ年なんですね。生きていれば、あなたのような年ごろなのね」
そう言うと、感慨深そうにつね子さんは玉井さんの顔を覗いたそうである。
小熊秀雄と妻つね子、そして息子焔の一家の運命は次のように推移している。
大正13年(1924年)10月、小熊秀雄と崎本つね子は、旭川で行われたカムシュペ画会会場で出会った。当時、小熊秀雄は旭川新聞記者、つね子は神居小学校音楽担当の教員だった。
そして翌年の大正14年(1925年)2月、出会ってたった4カ月余りで二人は結婚。次いで、同年4月、小熊は旭川新聞社を退社、」二人は上京する。
しかし、前年に画家高橋北修と上京した時に、昇曙夢や湯浅芳子の助けで「焼かれた魚」が「愛国婦人」という雑誌に掲載されたとはいえ、二人で4月から7月まで東京で過ごしだけで、小熊は詩人として立つことはできず、7月に旭川へ戻り、姉の家へ滞在する。
さらに、同年9月、小熊は妊娠中の妻を伴い小樽から樺太の父の住む泊居へ赴く。
そして、ここ泊居で翌年の大正15年(1926年)1月5日に生まれたのが、小熊夫妻の一人息子
「焔」
だった。
おそらく、日本国中を探しても、息子に「焔」という名を付けた親はいなかっただろう。一字だけ、しかも、燃え盛る焔のイメージ。いかにも小熊らしいと私は思っている。
その、小熊の長男「焔」は、昭和3年((1928年)6月、両親とともに旭川を出て上京、その後、東京で貧困のうちに少年時代を過ごす。昭和15年(1939年)11月20日に、東京池袋の東荘アパートで39歳の父小熊秀雄が亡くなった後、昭和20年(1945年)8月25日、父と同じ結核のため死去。20歳だった。中学校の理科の助手をしていたという。
詩人が家族に与えた運命は、苛酷であった。妻のつね子さんは、孤独のままに1982年1月31日79歳で亡くなった。
中本さんは1958年に、小熊つね子さんい会っている。私は全集が出始めた1978年につね子さんに会ってお話を聞いている。
つまり、今回のサハリンへの旅のメンバー4人中3名が、生前の小熊つね子に会い、お話を聞いている。サハリンの旅へ向かう男たちの詩人小熊秀雄への思い入れの深さが、ここにも表れている。
「この泊居は、焔君の本当の生まれ故郷なんですね。しかも、玉井さんと同じ大正15年生まれですか。焔君が生きていて、ここにいる可能性もあったのすね」
私がそう言うと、玉井さんは何度も何度も頷く。
何故、小熊夫妻は、焔君の出産のために旭川から遠い泊居に赴いたのだろう。しかも、そこには小熊とは性格的に全く合わない継母ナカがいる。つね子さんも三木家の居心地が良かったと思えない。
実際、失業していた小熊は、肺尖で微熱が続き、継母ナカとは折り合いが悪く、妻つね子さんを一人泊居へ残して旭川へ戻る。小熊は旭川新聞へ復職。妻子は、大正15年2月に旭川の小熊の元へ戻る。
こうして、上京から旭川、そして泊居へとい経緯を見ても、小熊夫妻が、旭川の姉の家で焔君の出産をすることを選択しなかったことには、どう見ても疑問が残る。
当時、小熊の義理の妹チエが、泊居から姉ハツを頼って旭川へ来ていた。しかも、チエは、小熊の父三木清次郎の子供を宿し、姉ハツの家で娘栄子を生んだばかりであった。つまり、姉ハツの嫁ぎ先である津村家は、小熊を巡り妹をめぐり大変な状況だっただろうと想像される。姉ハツは、小熊夫妻の出産を受け入れる余裕は、全くなかったのだろう。
経緯はともかく、泊居は、小熊秀雄の息子焔の生地であるのは確かな事実だった。
文化会館に入ると、一階のホールでは近々行われる音楽祭の練習が行われている。我々は、しばらく、それを見学してから、二階の図書館で、本に囲まれて少しの間休んだ。
午後6時、玉井さんと私は一足先に文化会館の前で、駅まで送ってくれることになった郷土博物館長の朝鮮人のジョーさんとお話をした。
ジョーさんはロシア語しかできない。つまり、私は、ロシア語の会話の本を取り出し
「何歳ですか」
などという、幾つかの単純な質問をする。質問はしても、ジョーさんのロシ語での答えが私には理解できない。そうすると、ジョーさんは、
「1949」
と、地面に書く。つまり、現在は2009年であるから、彼はちょうど60歳ということになる。
玉井さんも私も随分と驚いたく。髪の黒さ、敏捷な体の動き、どれをとっても、40代だと思っていたのである。私より彼は年齢が上の人だった。
それにしても、ジョーさんの思いやりに満ちたこの雰囲気は一体どこから来るのだろうか。
中本さんがロシアの国賓待遇の方であるとか、我々がめったにない郷土博物館への外国からの訪問者であるとか、義理から親切心と言うのではない。表情から体全体に現れる温かさが、彼にはあるのだった。
夕暮れの光が我々を包み、周囲には、庭の花を摘む少女たちがいる。
しばらくすると、中本さんと高田さんが、ソコローバさんと一緒に玄関から出てくる。中本さんにばかりロシア語を任せているのは申し訳ないと感じていた私は、会話の本を見ながら
「本当にありがとうございました。お元気でいてください。また、お会いするの楽しみにしています」
と、館長のソコローバさんに告げた。やや長いが、ほとんど、カタカナをアクセントに注意して読んだだけである。
そうすると、ソコローバさんの顔が微笑みで満ちた。どうやら、私のロシア語が通じたのである。
言葉は人と人の心をつなぐ、それを実感する瞬間だった。
また、会うことを約束しながら、見送る人々に手を振って車に乗った我々はトマリ駅へ向かった。運転は、ジョーさんである。
午後18時40分、列車はホルムスクへ向かって動き出した。ジョーさんは、トマリ駅のホームで我々に手を振っている。
早朝、泊居神社で会った朝鮮人の夫妻といい、見送りに来て下さったジョーさんといい、泊居は朝鮮人との出会いの場所でもあった。
早朝の午前5時30分にトマリ駅についてから、12時間以上が経過した。電車は、すでに駅を出た。
詩人の故郷から、我々は少しづつ離れつつある。旧-王子製紙の廃墟の高い煙突が、トマリの家並みの向こうに見えてる。
たった一日、しかし、詩人小熊秀雄の泊居で過ごした少年時代の10年の幻を求める積年の想いを果たす長い一日が終わった。
2009年07月30日
サハリン島-詩人たちへの旅-9.響きあう心
戦前、我々日本人が植民地化していた朝鮮半島で強制的に拉致し、樺太へ連行した結果、サハリンには、いまだにその子孫である朝鮮人の方々が住んでいる。
しかし、私の歴史知識は浅く、真岡生まれで、在日韓国人作家李恢成の芥川賞受賞作
「伽耶子のために」
を始め、彼の幾つかの本を読むくらいのことしかできてはいない。
また朝鮮半島を訪れたこともなく、彼らの姿にいままでに直接触れる経験がなかった。
トマリ文化会館で、館長のソコローバ・エレーナさんに紹介されたトマリ郷土博物館館長は、
「ジョー.・メン.ヴォン.エリック」
さんという黒い髪の東洋人だった。朝鮮人3世の方で、微笑みを湛えて我々と挨拶して下さる。四十代後半だろうか、私よりは若く感じた。
ジョ-さんの案内で、二階の郷土博物館を見せて頂く。大きな部屋ではないが、トマリ周辺の植物、動物、歴史に関する展示がコンパクトにまとめて展示されている。
このあたりにはアイヌ民族が住んでおり、日本人とアイヌの交流を描いた叙事詩
「飛ぶ橇」
は、この地で少年時代を過ごした詩人小熊秀雄が生前に出した二冊の詩集の中の一冊のタイトルとなっている。また、その詩のタイトルの副題に
-アイヌ民族のために-
という言葉が掲げられており、小熊秀雄がこの地泊居で触れあったアイヌ民族への想いがいかに強かったかが分かる代表作である。
もしここで、小熊秀雄の展示が行われ、ロシア語訳「飛ぶ橇」の詩が掲げられ、現在展示してあるアイヌ民族の展示とのコラボレーションが行われれば、訪問者にとっては、日本とアイヌとロシアを結ぶ一つの大きな架け橋となるに違いない。
高田さんの発想と企画力で、来年にはこの展示が実行されれば、かつてないトマリ郷土博物館の画期的な事業となるだろう。
その後、郷土博物館館長のジョーさんの車で、トマリの南の海の見える丘にある
「鎮魂碑」
を見に行った。マーガレットの咲く丘には、黒い石に「鎮魂」と書かれ、その後ろに
「たどりつき
涙の祈り
故郷の
この地に眠る
御霊安かれ」
という言葉が刻まれている。1992年(平成4年)に建てられたものであり、側面には協力者の名が刻まれている。
小熊の父、三木清次郎は昭和3年にこの地で命を閉じている。義理の母はその年に旭川へ行き、義理の妹もとうに泊居を去っている。協力者の中に三木という名はなく、小熊という名の方は一人見られたが、小熊秀雄の実母の家系とは違った人だろう。
その後、駅周辺へ行く。ジョ-さんが、駅近くの通りで、日本の社会主義者片山潜の名から取った
「カタヤマセン通り」
を教えてくれた。、片山潜は日本では忘れ去られようとしているが、この泊居に、この地を、訪れたこともない日本人の名が付けられている不思議を館感じた。
この周辺には、日本人が生活していた時には、病院、役場、警察、映画館、消防署などがあった筈である。
また、小熊が「白い夜」という詩の中で書いている
「少年世界」
という雑誌や、好んでいたという石川啄木の歌集を買った書店も、小熊が卒業した高等小学校もあったことだろう。
午後1時、再び文化会館へ戻り、図書館を見せて頂く。やはり、さほど大きな部屋ではなく冊数も多くはない。しかし、チェーホフの本などは、ほとんど全部が揃っており、トマリの人々にとっては大事な図書館だろうと思った。
図書館を見せて頂いた後、文化会館館長のソコローバさんと共に、歩いてレストランへ向かった。お孫さん二人と一緒である。
広いレーニン広場の前に、レストラン
「桜」
がある。レストランの壁に掲げられている看板には
「KAYPA」
と書いてあるが、その下には漢字で
「桜」
とも書いてある。つまり、レストランの名は「桜」なのである。
ここで、朝我々を案内してくれた運転手ニコライさんの奥さんであるオリガさんと会う。黒髪のロシア人で、ニコライさんの自慢の妻である。
また、このレストランの女性経営者であるリーリアさんとも挨拶を交わす。小柄だが、腕っ節の強そうな愛想の良い人である。
食事をしていると、野球帽子に眼鏡をじかけた運転手ニコライさんが、友人の女性を連れて来て、昼食の場がにぎやかになる。ニコライさんは、愛飲しているコニャック持参で、高田さんはじめ、飲むのが大好きな玉井、中本さんも彼と一緒に飲んでいる。
ニコライさんが、共に連れてきた女性は
「セヴェタ・ギリョウバ」
さんという名だった。彼女は、シベリアの最東端ウラジオすと奥の生まれで、30代の金髪女性である。始めて出会ったのに、もうすでに友達だったような親しさを感じる人だった。
彼女は、何と日本へ行ったことがあり、しかもロシア人には珍しく英語が話せる。ロシアで、ホテルの従業員の女性以外で、英語で言葉を交わしたのはセヴェタさんが初めてである。
私も、10年ほど前まで東京周辺に住んでいたことがあるので、彼女の知っている東京、横浜、鎌倉について話が弾む。鎌倉については、小町通りの幾つかの店の話、それに鎌倉に行くと誰もが訪れる長谷の大仏の話をした。
セヴェタさんは、日本語も少し勉強したらしく、私の名刺を見せると、そこに含まれる
「川」「二」
という単純な漢字を読んだ。泊居で日本語を読み、鎌倉について語る事が出来るとは思ってもみなかったことである。
中本さんは、文化会館館長ソコローバさんに誘われて、レストランに流れているロシアの音楽に合わせて踊り始めた。このような踊りには、ロシアの経験の深い中本さんは慣れている。
そのうちに、ソコローバさんお孫さん二人、そして高田さんまで参加して踊り始めた。
玉井さんはそのような様子を見ていたが
「宮川さん、ちょっと外へ出て煙草を吸いませんか?」
と、誘ってきた。私は、普段は煙草を吸わないが、この旅では玉井さんに付き合って、禁煙の室内から外へ出て、しばしば二人で煙草を吸っている。
すると、女性経営者のリーリアさんも、我々二人と一緒に外へ出て来た。なにやら彼女は、我々と話をしたいらしい。
曇っていた外は明るく、日差しも出てきた。
リーリアさんは、ロシア語しか話さない人である。しかし、どうにか身ぶり手ぶりで会話をする。よく分からなくとも、なぜか楽しく思わず笑いが込み上げてくる。
カメラを常に携帯している私は、玉井さんとリーリアさんの二人を撮る。玉井さんは、リーリアさんを横にして、大変な照れようである。
詩人の故郷で、こうして、ロシアに人々と響きあう心を持つことが出来た。恩寵の光が、ますます我々の旅に差し込んでいるように感じられる。夏の花が、道端に咲き、我々の旅を祝福しているようだ。
しかし、私の歴史知識は浅く、真岡生まれで、在日韓国人作家李恢成の芥川賞受賞作
「伽耶子のために」
を始め、彼の幾つかの本を読むくらいのことしかできてはいない。
また朝鮮半島を訪れたこともなく、彼らの姿にいままでに直接触れる経験がなかった。
トマリ文化会館で、館長のソコローバ・エレーナさんに紹介されたトマリ郷土博物館館長は、
「ジョー.・メン.ヴォン.エリック」
さんという黒い髪の東洋人だった。朝鮮人3世の方で、微笑みを湛えて我々と挨拶して下さる。四十代後半だろうか、私よりは若く感じた。
ジョ-さんの案内で、二階の郷土博物館を見せて頂く。大きな部屋ではないが、トマリ周辺の植物、動物、歴史に関する展示がコンパクトにまとめて展示されている。
このあたりにはアイヌ民族が住んでおり、日本人とアイヌの交流を描いた叙事詩
「飛ぶ橇」
は、この地で少年時代を過ごした詩人小熊秀雄が生前に出した二冊の詩集の中の一冊のタイトルとなっている。また、その詩のタイトルの副題に
-アイヌ民族のために-
という言葉が掲げられており、小熊秀雄がこの地泊居で触れあったアイヌ民族への想いがいかに強かったかが分かる代表作である。
もしここで、小熊秀雄の展示が行われ、ロシア語訳「飛ぶ橇」の詩が掲げられ、現在展示してあるアイヌ民族の展示とのコラボレーションが行われれば、訪問者にとっては、日本とアイヌとロシアを結ぶ一つの大きな架け橋となるに違いない。
高田さんの発想と企画力で、来年にはこの展示が実行されれば、かつてないトマリ郷土博物館の画期的な事業となるだろう。
その後、郷土博物館館長のジョーさんの車で、トマリの南の海の見える丘にある
「鎮魂碑」
を見に行った。マーガレットの咲く丘には、黒い石に「鎮魂」と書かれ、その後ろに
「たどりつき
涙の祈り
故郷の
この地に眠る
御霊安かれ」
という言葉が刻まれている。1992年(平成4年)に建てられたものであり、側面には協力者の名が刻まれている。
小熊の父、三木清次郎は昭和3年にこの地で命を閉じている。義理の母はその年に旭川へ行き、義理の妹もとうに泊居を去っている。協力者の中に三木という名はなく、小熊という名の方は一人見られたが、小熊秀雄の実母の家系とは違った人だろう。
その後、駅周辺へ行く。ジョ-さんが、駅近くの通りで、日本の社会主義者片山潜の名から取った
「カタヤマセン通り」
を教えてくれた。、片山潜は日本では忘れ去られようとしているが、この泊居に、この地を、訪れたこともない日本人の名が付けられている不思議を館感じた。
この周辺には、日本人が生活していた時には、病院、役場、警察、映画館、消防署などがあった筈である。
また、小熊が「白い夜」という詩の中で書いている
「少年世界」
という雑誌や、好んでいたという石川啄木の歌集を買った書店も、小熊が卒業した高等小学校もあったことだろう。
午後1時、再び文化会館へ戻り、図書館を見せて頂く。やはり、さほど大きな部屋ではなく冊数も多くはない。しかし、チェーホフの本などは、ほとんど全部が揃っており、トマリの人々にとっては大事な図書館だろうと思った。
図書館を見せて頂いた後、文化会館館長のソコローバさんと共に、歩いてレストランへ向かった。お孫さん二人と一緒である。
広いレーニン広場の前に、レストラン
「桜」
がある。レストランの壁に掲げられている看板には
「KAYPA」
と書いてあるが、その下には漢字で
「桜」
とも書いてある。つまり、レストランの名は「桜」なのである。
ここで、朝我々を案内してくれた運転手ニコライさんの奥さんであるオリガさんと会う。黒髪のロシア人で、ニコライさんの自慢の妻である。
また、このレストランの女性経営者であるリーリアさんとも挨拶を交わす。小柄だが、腕っ節の強そうな愛想の良い人である。
食事をしていると、野球帽子に眼鏡をじかけた運転手ニコライさんが、友人の女性を連れて来て、昼食の場がにぎやかになる。ニコライさんは、愛飲しているコニャック持参で、高田さんはじめ、飲むのが大好きな玉井、中本さんも彼と一緒に飲んでいる。
ニコライさんが、共に連れてきた女性は
「セヴェタ・ギリョウバ」
さんという名だった。彼女は、シベリアの最東端ウラジオすと奥の生まれで、30代の金髪女性である。始めて出会ったのに、もうすでに友達だったような親しさを感じる人だった。
彼女は、何と日本へ行ったことがあり、しかもロシア人には珍しく英語が話せる。ロシアで、ホテルの従業員の女性以外で、英語で言葉を交わしたのはセヴェタさんが初めてである。
私も、10年ほど前まで東京周辺に住んでいたことがあるので、彼女の知っている東京、横浜、鎌倉について話が弾む。鎌倉については、小町通りの幾つかの店の話、それに鎌倉に行くと誰もが訪れる長谷の大仏の話をした。
セヴェタさんは、日本語も少し勉強したらしく、私の名刺を見せると、そこに含まれる
「川」「二」
という単純な漢字を読んだ。泊居で日本語を読み、鎌倉について語る事が出来るとは思ってもみなかったことである。
中本さんは、文化会館館長ソコローバさんに誘われて、レストランに流れているロシアの音楽に合わせて踊り始めた。このような踊りには、ロシアの経験の深い中本さんは慣れている。
そのうちに、ソコローバさんお孫さん二人、そして高田さんまで参加して踊り始めた。
玉井さんはそのような様子を見ていたが
「宮川さん、ちょっと外へ出て煙草を吸いませんか?」
と、誘ってきた。私は、普段は煙草を吸わないが、この旅では玉井さんに付き合って、禁煙の室内から外へ出て、しばしば二人で煙草を吸っている。
すると、女性経営者のリーリアさんも、我々二人と一緒に外へ出て来た。なにやら彼女は、我々と話をしたいらしい。
曇っていた外は明るく、日差しも出てきた。
リーリアさんは、ロシア語しか話さない人である。しかし、どうにか身ぶり手ぶりで会話をする。よく分からなくとも、なぜか楽しく思わず笑いが込み上げてくる。
カメラを常に携帯している私は、玉井さんとリーリアさんの二人を撮る。玉井さんは、リーリアさんを横にして、大変な照れようである。
詩人の故郷で、こうして、ロシアに人々と響きあう心を持つことが出来た。恩寵の光が、ますます我々の旅に差し込んでいるように感じられる。夏の花が、道端に咲き、我々の旅を祝福しているようだ。
2009年07月29日
サハリン島-詩人たちへの旅-8.泊居-反逆の志
鬼気迫る廃墟・・・。
玉井さんが、車中で口にした旧王子製紙泊居工場跡を、私は、車から出ると一人で奥まで入り込んだ。まさに、夜が明けたばかりの、誰一人いない鬼気迫る廃墟を歩くと、100年近くを経過した歴史と人々の声が遠い過去から聞こえてきそうな気がした。
しかし、そこには廃墟の美がある。私を引きつけて止まない滅び行くものへの哀惜の念が、私をして数多くのカメラのシャッターを押させた。
我々をトマリ(旧-泊居)駅に迎えに来てくれたニコライさんによると
「本当はすべて壊して、広い敷地に別なものを作りたいと思っている。しかし、日本人が、あの当時としては非常に高度な建築技術で、コンクリートで作った工場を壊すことが出来ない」
とのことだった。
ロシア人は、我々のように、ごく稀に訪れる日本の旅人のために、過去の遺構として製紙工場を残しているのではない。この巨大な建築物を、ロシアの人々は壊したくとも壊すことが出来ないのである。
詩人小熊秀雄は、この町の高等小学校二年を卒業以来、この工場で労働者として働いていた大正初期に、機械に引きちぎられて右手の食指、中指2本の指を失った。他にも彼はこの樺太で鰊、イカ釣り漁師の手伝い、養鶏場番人、炭焼き手伝い、、農夫、昆布拾い、伐木人夫などに従事しているが、この指を失ったことによって、徴兵検査で徴兵を逃れることになる。
また、大正十年のこの徴兵検査で、初めて戸籍簿を見て、養女チエが入籍されているにも関わらず、自分が既に亡くなっている実の母小熊マツの私生児となっていることを知る。
小熊秀雄として知られている男は、実は生まれてから20歳まで
「三木秀雄」
と名乗っていた。父の名が三木清次郎であるから、それは、長男である秀雄にとっては、まさに当然のことだった。しかし、この事実を知った秀雄は、以後三木姓を捨て小熊と名乗る。
我々の知る「小熊秀雄」の誕生は、ここトマリだった。そして、幼時に分かれた姉ハツが北海道旭川にいることを突き止め、泊居を出て姉のもとを訪ねる。
旭川との縁は、ここにはじまり、そして今に至っている。
このトマリは、詩人小熊にとっては、少年時代に
「夢紡ぐ村」
であった。しかし、父と継母ナカへの、三木という姓を捨て去るほどの驚愕と怒りを見ると
「反逆の志」
を、生んだ村である。その因縁の村の象徴が、私が今立っている旧-王子製紙泊居工場だった。
車を止めた地点へ戻り、玉井、中本、高田さんたちを、この工場跡をバックに写真を撮る。
車を返して、少し戻り、鳥居の立つ小高い山へ登った。階段はすでになく、残っているのは二つの鳥居と駒犬の台座だけである。この駒犬の台座は、長年の削り取られた崖の縁にむき出しで飛び出ており、いつ我々が通った道へと滑り落ちても不思議はない状態となっている。
第一の鳥居へ登ると、トマリの町と、間宮海峡が見渡せる。髪の黒い東洋人の夫婦がそこで休んでいる。
私が日本語で
「こんにちは」
というと、当然のように日本語で
「こんにちは」
と、返事をしてくれる。朝鮮人のご夫妻だった。しかし、彼等は、あいさつ程度の日本語は知っていてもそれ以上は知らず、会話はそこまでだった。身ぶり手ぶりで分かったことは、彼等は、このトマリに住む方々で、散歩のために展望の良い元泊居神社のこの地点に毎朝来るとのことだった。
彼等は、後から登って来た中本、高田さん、そしてニコライさんともあいさつを交わす。ニコライさんとは、お互いに小さな町の住人同士で知り合いだった。
その後、この地点から反対側にある
「文化会館」
へ、車で行った。文化会館には、まだ午前7時を少し過ぎたばかりだというのに、館長の
「ソコローバ・エレーナ」
さんという中年女性が我々を迎えてくださる。きっと、いつもより早く起き、運転手のニコライさんを駅へ差し向け、彼女自身も早くから待機していたに違いない。
文化会館1階は、音楽、演劇などを行えるホールだった。我々は二階へ案内される。二階には、郷土博物館と図書館、そして応接間とソコローバ・エレーナさんの会館長室がある。
応接間で、我々が日本から持ってきた資料や、お土産、そして旭川小熊秀雄賞市民実行委員会事務局長の高田さんから、旭川から発行された
「小熊秀雄詩撰-星の光りのように」
が、手渡された。ソコローバ・エレーナさんによると、日本の詩人小熊秀雄がここトマリで少年時代の10年間を過ごした事は全く知らなかったという。
高田さんは、それを伝えられると、館長ソコローバさんに
「ここの郷土博物館に、近い将来、日本の詩人小熊秀雄のコーナーを作って頂きたい」
と、提案した。それほど広いスペースを持つ郷土博物館ではないようだが、サハリン全体が日本の過去の歴史をきちっと伝えようとする方向へ転換しようとしている現在、トマリに深い関連のある
「小熊秀雄コーナー」
を、設置することに関しては、館長ソコローバさんには賛成の意を表明して頂いた。
高田さんは、もともと経済人であり、将来を見越した発想、大胆な企画を次々と打ち出す人である。
トマリの郷土博物館に「小熊秀雄コーナー」が設けられ、日本の旭川とトマリが協力して素晴らしい掲示がなされることは夢ではなくなった。
外は、少し雨が降り出した。我々は、ゆったりとした応接間で、持参した食料と紅茶で軽く朝食をとり、少し中本さんのチエーホフに関したお話を聞き、その後、少し眠った。
玉井さんが、車中で口にした旧王子製紙泊居工場跡を、私は、車から出ると一人で奥まで入り込んだ。まさに、夜が明けたばかりの、誰一人いない鬼気迫る廃墟を歩くと、100年近くを経過した歴史と人々の声が遠い過去から聞こえてきそうな気がした。
しかし、そこには廃墟の美がある。私を引きつけて止まない滅び行くものへの哀惜の念が、私をして数多くのカメラのシャッターを押させた。
我々をトマリ(旧-泊居)駅に迎えに来てくれたニコライさんによると
「本当はすべて壊して、広い敷地に別なものを作りたいと思っている。しかし、日本人が、あの当時としては非常に高度な建築技術で、コンクリートで作った工場を壊すことが出来ない」
とのことだった。
ロシア人は、我々のように、ごく稀に訪れる日本の旅人のために、過去の遺構として製紙工場を残しているのではない。この巨大な建築物を、ロシアの人々は壊したくとも壊すことが出来ないのである。
詩人小熊秀雄は、この町の高等小学校二年を卒業以来、この工場で労働者として働いていた大正初期に、機械に引きちぎられて右手の食指、中指2本の指を失った。他にも彼はこの樺太で鰊、イカ釣り漁師の手伝い、養鶏場番人、炭焼き手伝い、、農夫、昆布拾い、伐木人夫などに従事しているが、この指を失ったことによって、徴兵検査で徴兵を逃れることになる。
また、大正十年のこの徴兵検査で、初めて戸籍簿を見て、養女チエが入籍されているにも関わらず、自分が既に亡くなっている実の母小熊マツの私生児となっていることを知る。
小熊秀雄として知られている男は、実は生まれてから20歳まで
「三木秀雄」
と名乗っていた。父の名が三木清次郎であるから、それは、長男である秀雄にとっては、まさに当然のことだった。しかし、この事実を知った秀雄は、以後三木姓を捨て小熊と名乗る。
我々の知る「小熊秀雄」の誕生は、ここトマリだった。そして、幼時に分かれた姉ハツが北海道旭川にいることを突き止め、泊居を出て姉のもとを訪ねる。
旭川との縁は、ここにはじまり、そして今に至っている。
このトマリは、詩人小熊にとっては、少年時代に
「夢紡ぐ村」
であった。しかし、父と継母ナカへの、三木という姓を捨て去るほどの驚愕と怒りを見ると
「反逆の志」
を、生んだ村である。その因縁の村の象徴が、私が今立っている旧-王子製紙泊居工場だった。
車を止めた地点へ戻り、玉井、中本、高田さんたちを、この工場跡をバックに写真を撮る。
車を返して、少し戻り、鳥居の立つ小高い山へ登った。階段はすでになく、残っているのは二つの鳥居と駒犬の台座だけである。この駒犬の台座は、長年の削り取られた崖の縁にむき出しで飛び出ており、いつ我々が通った道へと滑り落ちても不思議はない状態となっている。
第一の鳥居へ登ると、トマリの町と、間宮海峡が見渡せる。髪の黒い東洋人の夫婦がそこで休んでいる。
私が日本語で
「こんにちは」
というと、当然のように日本語で
「こんにちは」
と、返事をしてくれる。朝鮮人のご夫妻だった。しかし、彼等は、あいさつ程度の日本語は知っていてもそれ以上は知らず、会話はそこまでだった。身ぶり手ぶりで分かったことは、彼等は、このトマリに住む方々で、散歩のために展望の良い元泊居神社のこの地点に毎朝来るとのことだった。
彼等は、後から登って来た中本、高田さん、そしてニコライさんともあいさつを交わす。ニコライさんとは、お互いに小さな町の住人同士で知り合いだった。
その後、この地点から反対側にある
「文化会館」
へ、車で行った。文化会館には、まだ午前7時を少し過ぎたばかりだというのに、館長の
「ソコローバ・エレーナ」
さんという中年女性が我々を迎えてくださる。きっと、いつもより早く起き、運転手のニコライさんを駅へ差し向け、彼女自身も早くから待機していたに違いない。
文化会館1階は、音楽、演劇などを行えるホールだった。我々は二階へ案内される。二階には、郷土博物館と図書館、そして応接間とソコローバ・エレーナさんの会館長室がある。
応接間で、我々が日本から持ってきた資料や、お土産、そして旭川小熊秀雄賞市民実行委員会事務局長の高田さんから、旭川から発行された
「小熊秀雄詩撰-星の光りのように」
が、手渡された。ソコローバ・エレーナさんによると、日本の詩人小熊秀雄がここトマリで少年時代の10年間を過ごした事は全く知らなかったという。
高田さんは、それを伝えられると、館長ソコローバさんに
「ここの郷土博物館に、近い将来、日本の詩人小熊秀雄のコーナーを作って頂きたい」
と、提案した。それほど広いスペースを持つ郷土博物館ではないようだが、サハリン全体が日本の過去の歴史をきちっと伝えようとする方向へ転換しようとしている現在、トマリに深い関連のある
「小熊秀雄コーナー」
を、設置することに関しては、館長ソコローバさんには賛成の意を表明して頂いた。
高田さんは、もともと経済人であり、将来を見越した発想、大胆な企画を次々と打ち出す人である。
トマリの郷土博物館に「小熊秀雄コーナー」が設けられ、日本の旭川とトマリが協力して素晴らしい掲示がなされることは夢ではなくなった。
外は、少し雨が降り出した。我々は、ゆったりとした応接間で、持参した食料と紅茶で軽く朝食をとり、少し中本さんのチエーホフに関したお話を聞き、その後、少し眠った。
2009年07月28日
サハリン島-詩人たちへの旅-7.泊居-夢紡ぐ村
2009年5時25分、夜汽車は薄明のトマリ(旧-泊居)に着いた。ホルムスク(旧-真岡)から87キロ。2時間30分の夜汽車の旅だった。
旭川-東京間は海を隔てて、1200キロの距離がある。旭川-トマリは、同じく海を隔ててはいるものの、約600キロ程度しかない。つまり、遠いと感じていた詩人小熊秀雄の原点とも言うべき町泊居(現-トマリ)は、旭川から東京への距離の半分にすぎなかった。
心理的にはロシアという異国でもあり、どんなに小熊秀雄の詩を深く読んでいたとしても、決して訪れることのない場所だろうとしか思っていなかった。近くて遠い樺太、そして泊居、その町に降りたった。
いまだ、うっすらと暗い。日本時間では3時30分を過ぎたばかりだ。ここは、3両編成の夜汽車の終点である。
ロシアの駅には、日本のようなプラットホームがない。つまり、着いた時点で、列車の高い位置から地面の位置まで荷物も自分降りなければならない。これは、イギリスやフランスなどでも事情は同じだった。
このプラットホームがないという事情は、今回の高齢の方々のいる旅ではなかなか降りるのが困難だった。しかし、何といっても中本さんとホルムスクからトマリまで会話を続けたガッチリした体格の鉄道保安官が、私を除いた3人の日本人が降りるのをしっかりと支えた。
トマリ駅に一番近いホームに、我々が乗ってきたものとは違う電車が入線してきた。これから、北周りでユジノサハリンスクへ向かう列車に乗り込む乗客がホームでたくさん待っている。
この列車が出ると、トマリ駅は急にがらんとして寂しくなった。残されたのは我々4人と、なぜか、まだ残って中本さんと話し続けている鉄道保安官フロブーシャだけだった。
駅の外に出る。迎えの車はない。何といってもまだ午前6時前である。中本さんが、ロシアにとって国賓とはいえ、この時間にトマリで迎えを期待する方が無理である。駅前に灯りの点る家があるが、観光案内所とも思えない。現に、明かりが点っているだけで誰もいる様子はない。
幸い曇ってはいるが雨ではない。いざとなったら、4人でゆっくりとトマリの町を歩き、一日を過ごし、夕方6時40分のトマリ発ホルムスク駅行きの電車の乗ればいいだけである。
非常食は、高田さんと私が少しだけは持っている。昼は、レストランがどこには見つかるだろう。何といっても、中本さんというロシアの堪能な方がいるのだから、心配はなにもない。
我々4人と鉄道保安官フロブーシャを加えた5人がしばらく話をしながらトマリ駅前にいると、左手の海の方角から、ヘッドライトをつけた車がやってきた。
運転をしている眼鏡をかけ、野球帽子を被ったほっそりとした男が車から出てきて、何やら中本さんと話をしている。
「我々を、トマリ文化会館館長からの指令で迎えに来てくれたニコライさんです。これから、少し町を回ってから文化会館へ向かうとのことです」
迎えがないことを覚悟していたが、正直に言って全員がホッとした。小さな町とはいえ、休むところも、食事するところもないままに夕方までを過ごすのはきつい。サハリン州文化局長ブリュノワさんの根回しと、中本さんのおかげである。
鉄道保安官フロブーシャと別れの握手をする。思わず、
「痛い!!」
と、声を上げそうなくらい強い握手である。
中本さんによると、ロシアでは強く握ることが友情のあかしであり、軽い握手では何のきずなもないことになるらしい。
荷物を載せ、車が走りだす。運転席の脇には、ウオッカやコニャックの瓶が置いてある。ひょっとしたら、運転手のニコライは、運転しながら飲んでいるのかもしれない。
トマリの町は、低い建物が多く、やはり、かなりの田舎のイメージである。日本建築は、まったく残っていない。
海へ向かう方向へ車が走っている。
「旧-王子製紙工場へ行くことになりました」
運転手ニコライと打ち合わせをした中本さんが、我々にそう告げた。
大きな道に出て右折すると、やがて橋を渡った。
高田さんが
「これが泊居大橋だね」
という。まさに、町を東から西へ横切り海に至る泊居川に架かる「泊居大橋」だった。1990年ころまでは、この橋の欄干に「泊居大橋」というプレートが残されていたというが今はもうない。
泊居大橋を渡ると、車は右折し、舗装されていない道を川沿いに走る。左手に続く丘の上には神社の鳥居、前方には旧-王子製紙工場跡が、圧倒的な大きさで迫っている。駅からここまで、日本人がここ泊居に住んでいたことを証明するものは何もなかったのだが、忽然として目の前に現れた鳥居と製紙工場跡がそれを示している。
玉井さんが
「鬼気迫る光景ですなあ」
と、揺れる車内で感慨深く呟く。
鬼気迫る・・・・。まさにその言葉が、この廃墟には一番ふさわしい言葉だと思った。
旭川-東京間は海を隔てて、1200キロの距離がある。旭川-トマリは、同じく海を隔ててはいるものの、約600キロ程度しかない。つまり、遠いと感じていた詩人小熊秀雄の原点とも言うべき町泊居(現-トマリ)は、旭川から東京への距離の半分にすぎなかった。
心理的にはロシアという異国でもあり、どんなに小熊秀雄の詩を深く読んでいたとしても、決して訪れることのない場所だろうとしか思っていなかった。近くて遠い樺太、そして泊居、その町に降りたった。
いまだ、うっすらと暗い。日本時間では3時30分を過ぎたばかりだ。ここは、3両編成の夜汽車の終点である。
ロシアの駅には、日本のようなプラットホームがない。つまり、着いた時点で、列車の高い位置から地面の位置まで荷物も自分降りなければならない。これは、イギリスやフランスなどでも事情は同じだった。
このプラットホームがないという事情は、今回の高齢の方々のいる旅ではなかなか降りるのが困難だった。しかし、何といっても中本さんとホルムスクからトマリまで会話を続けたガッチリした体格の鉄道保安官が、私を除いた3人の日本人が降りるのをしっかりと支えた。
トマリ駅に一番近いホームに、我々が乗ってきたものとは違う電車が入線してきた。これから、北周りでユジノサハリンスクへ向かう列車に乗り込む乗客がホームでたくさん待っている。
この列車が出ると、トマリ駅は急にがらんとして寂しくなった。残されたのは我々4人と、なぜか、まだ残って中本さんと話し続けている鉄道保安官フロブーシャだけだった。
駅の外に出る。迎えの車はない。何といってもまだ午前6時前である。中本さんが、ロシアにとって国賓とはいえ、この時間にトマリで迎えを期待する方が無理である。駅前に灯りの点る家があるが、観光案内所とも思えない。現に、明かりが点っているだけで誰もいる様子はない。
幸い曇ってはいるが雨ではない。いざとなったら、4人でゆっくりとトマリの町を歩き、一日を過ごし、夕方6時40分のトマリ発ホルムスク駅行きの電車の乗ればいいだけである。
非常食は、高田さんと私が少しだけは持っている。昼は、レストランがどこには見つかるだろう。何といっても、中本さんというロシアの堪能な方がいるのだから、心配はなにもない。
我々4人と鉄道保安官フロブーシャを加えた5人がしばらく話をしながらトマリ駅前にいると、左手の海の方角から、ヘッドライトをつけた車がやってきた。
運転をしている眼鏡をかけ、野球帽子を被ったほっそりとした男が車から出てきて、何やら中本さんと話をしている。
「我々を、トマリ文化会館館長からの指令で迎えに来てくれたニコライさんです。これから、少し町を回ってから文化会館へ向かうとのことです」
迎えがないことを覚悟していたが、正直に言って全員がホッとした。小さな町とはいえ、休むところも、食事するところもないままに夕方までを過ごすのはきつい。サハリン州文化局長ブリュノワさんの根回しと、中本さんのおかげである。
鉄道保安官フロブーシャと別れの握手をする。思わず、
「痛い!!」
と、声を上げそうなくらい強い握手である。
中本さんによると、ロシアでは強く握ることが友情のあかしであり、軽い握手では何のきずなもないことになるらしい。
荷物を載せ、車が走りだす。運転席の脇には、ウオッカやコニャックの瓶が置いてある。ひょっとしたら、運転手のニコライは、運転しながら飲んでいるのかもしれない。
トマリの町は、低い建物が多く、やはり、かなりの田舎のイメージである。日本建築は、まったく残っていない。
海へ向かう方向へ車が走っている。
「旧-王子製紙工場へ行くことになりました」
運転手ニコライと打ち合わせをした中本さんが、我々にそう告げた。
大きな道に出て右折すると、やがて橋を渡った。
高田さんが
「これが泊居大橋だね」
という。まさに、町を東から西へ横切り海に至る泊居川に架かる「泊居大橋」だった。1990年ころまでは、この橋の欄干に「泊居大橋」というプレートが残されていたというが今はもうない。
泊居大橋を渡ると、車は右折し、舗装されていない道を川沿いに走る。左手に続く丘の上には神社の鳥居、前方には旧-王子製紙工場跡が、圧倒的な大きさで迫っている。駅からここまで、日本人がここ泊居に住んでいたことを証明するものは何もなかったのだが、忽然として目の前に現れた鳥居と製紙工場跡がそれを示している。
玉井さんが
「鬼気迫る光景ですなあ」
と、揺れる車内で感慨深く呟く。
鬼気迫る・・・・。まさにその言葉が、この廃墟には一番ふさわしい言葉だと思った。
2009年07月27日
サハリン島-詩人たちへの旅-6.夜汽車
2009年午前2時(日本時間0時)、部屋にモーニング・コールの電話が鳴り響く。すでに目が覚めていた私は素早く受話器を取った。
「・・・・・・・・・・・」
ロシア語である。意味は分からないのだが、昨晩、フロントで会った中年の女性に、中本さんがモーニング・コールを頼んでおいたので、「起きてください」という意味であるのは確かだ。私は、日本語で
「わかりました」
と、答えて電話を切る。
外は真っ暗である。服を整え、中型のリュックとカメラバッグの2つの荷物を持つと一階へ降りた。フロントには、同行の中本、玉井、高田さん、それにホテルのフロントの女性がいる。
午前2時30分、予約していたタクシーに乗り、始発の夜汽車が出る「ホルムスク・セベロ」駅へ向かう。人通りは全くないが、深夜のロシアの町もまたなかなか雰囲気がある。
灯に浮かびあがるホルムスク・セベロ駅に着いた。小さな駅である。
「トマリ・・・。いよいよですなあ」
玉井さんが、プラットホームで煙草を吸いながら私にそんなことを言う。
トマリ(旧-泊居)は、サハリンの南半分が日本領となっていた時代の大正元年頃から10年まで、詩人小熊秀雄が10歳から20歳に至る少年時代を過ごした町である。
詩人小熊秀雄は、明治34年(1901)小樽生まれである。3歳の時に母を亡くし、継母の故郷稚内、父の親戚の住む秋田、そして、樺太へ住む。そして、大正11年、姉ハツの住む旭川へ移り、新聞記者となった。
その後、昭和3年に上京、詩人として貧困と弾圧の中で詩を書き、昭和15年、太平洋戦争勃発の前年、力尽きて東京池袋で39歳で命を閉じる。
39歳で亡くなった詩人小熊秀雄が人生の四分の一、しかも最も多感な十代を過ごした町泊居へ我々は向かおうとしている。
玉井さんは、東京で創樹社という出版社を経営し、1977年に旧版、1990年に新版の
「小熊秀雄全集」
を出した方である。この他に、1982年に全集別巻として
「小熊秀雄研究」
という本を出している。この本は、単なる研究書ではない、多くの友による貴重な回想を数多く掲載し、今では散逸しそうな小熊の記憶をこの本に集めている。
小熊秀雄全集を出版するという行為、その苦労と決意は、素人の私でも想像するに余りある。
現在、小熊秀雄のすべての詩、エッセイ、童話、短歌、そして友人たちの回想が読めるのは、まさに全集を出すという
「玉井五一氏の決断」
による。その決断をく下したのは、小熊秀雄という人間と詩にどれだけ思い入れがあったことだろうと想像される。私にとって玉井さんは父のような存在だが、私の玉井氏への畏敬の念は強い。
まして、長年、訪れることは夢だとしか考えられなかった
「泊居」
を、玉井さんと訪れることができるのは、神の恩寵があったからこそだと思っている。
さらには、この旅の契機を作ってくれた高田さん、全集の月報に文章を寄せ、小熊に対して深い理解を持つ中本さんと同行できるのは至福といえる。
午前3時、夜汽車に乗り込む。3台連結のやや古めかしい車体である。乗客は多くはない。寝台列車でもないのに、何故このような深夜にホルムスクを発ち、早朝5時半にトマリに着くのか、その事情はわからない。この電車は週に3度しかホルムスク-トマリ間を走っていないと言う。
女性の車掌と、ごつい体の男性保安官が二人対になって一人ひとりの乗客をまわる。夜汽車とはいえ、腰に拳銃を下げた保安官が乗り込むということは、やはり、ロシアの治安が良くないということを示している。
トマリまでは157ルーブル、約500円余り。午前5時半着、各駅停車の鈍行としてもつまり2時間30分の乗車時間だから安いと言えるかもしれない。
切符の販売が終わると、保安官は暇らしく、ロシアの語のできる中本さんのところに座り、なにやら長いこと話している。保安官の名は
「フロブーシャ」
である。年齢は50歳を少し超えたくらいだろう。
フロブーシャは、自分は日本へ行っていないが、
「友人が日本に行って、日本はいい国だと言っている」
と、中本さんが時々彼の話を通訳してくれる。我々、ロシア語の出来ない3人はそれぞれに本を読んだりして時間をつぶす。私は、トマリ(旧-泊居)に行くに当たって、やはり、小熊秀雄の詩を読むべきだと思い、
「小熊秀雄詩集」
を取り出した。その中で、明らかに彼が少年時代を過ごした泊居を舞台にしたと考えられる詩
「トンボは北へ、私は南へ」
「白い夜」
を、繰り返し読んだ。
午前4時半、チェーホフ(旧-野田)駅到着。車内放送の設備がないらしく、駅が近づくと、車掌室から来た彼女はドアを開けて
「チェーホフ」
というように、大きな声で乗客に告げる。
チェーホフは、チェーホフが訪ねた町ではないが、このような名前が付けられた。サハリンでは、現在、チェーホフはどこへ行っても英雄扱いである。チェーホフ自身は、いつの日にか自分がこのような扱いをサハリンで受けるとは思ってもいなかったことだろう。
チエーホフ駅の前の広場には
「チェホフ像」
があるらしい。中本さんは、明日のトマリからの帰りの停車時間に、この像を撮影するようにと私に勧めた。もちろん、私は撮影するつもりである。
夜汽車は、次第に、詩人小熊秀雄が10年を過ごし、さまざまな職について労働し、詩への夢を紡ぎ、ついには反逆の心を胸に抱いた泊居へ近づいている。外は薄明となり、海が見えている。
私は、その薄明の夜汽車の中で、詩人の少年時代を想定した
「夢紡ぐ村」
という題の詩を書いた。私はこの詩を書きながら、この詩の題は
「反逆の村」
の方が、小熊にはふさわしいかも知れないと思った。
「・・・・・・・・・・・」
ロシア語である。意味は分からないのだが、昨晩、フロントで会った中年の女性に、中本さんがモーニング・コールを頼んでおいたので、「起きてください」という意味であるのは確かだ。私は、日本語で
「わかりました」
と、答えて電話を切る。
外は真っ暗である。服を整え、中型のリュックとカメラバッグの2つの荷物を持つと一階へ降りた。フロントには、同行の中本、玉井、高田さん、それにホテルのフロントの女性がいる。
午前2時30分、予約していたタクシーに乗り、始発の夜汽車が出る「ホルムスク・セベロ」駅へ向かう。人通りは全くないが、深夜のロシアの町もまたなかなか雰囲気がある。
灯に浮かびあがるホルムスク・セベロ駅に着いた。小さな駅である。
「トマリ・・・。いよいよですなあ」
玉井さんが、プラットホームで煙草を吸いながら私にそんなことを言う。
トマリ(旧-泊居)は、サハリンの南半分が日本領となっていた時代の大正元年頃から10年まで、詩人小熊秀雄が10歳から20歳に至る少年時代を過ごした町である。
詩人小熊秀雄は、明治34年(1901)小樽生まれである。3歳の時に母を亡くし、継母の故郷稚内、父の親戚の住む秋田、そして、樺太へ住む。そして、大正11年、姉ハツの住む旭川へ移り、新聞記者となった。
その後、昭和3年に上京、詩人として貧困と弾圧の中で詩を書き、昭和15年、太平洋戦争勃発の前年、力尽きて東京池袋で39歳で命を閉じる。
39歳で亡くなった詩人小熊秀雄が人生の四分の一、しかも最も多感な十代を過ごした町泊居へ我々は向かおうとしている。
玉井さんは、東京で創樹社という出版社を経営し、1977年に旧版、1990年に新版の
「小熊秀雄全集」
を出した方である。この他に、1982年に全集別巻として
「小熊秀雄研究」
という本を出している。この本は、単なる研究書ではない、多くの友による貴重な回想を数多く掲載し、今では散逸しそうな小熊の記憶をこの本に集めている。
小熊秀雄全集を出版するという行為、その苦労と決意は、素人の私でも想像するに余りある。
現在、小熊秀雄のすべての詩、エッセイ、童話、短歌、そして友人たちの回想が読めるのは、まさに全集を出すという
「玉井五一氏の決断」
による。その決断をく下したのは、小熊秀雄という人間と詩にどれだけ思い入れがあったことだろうと想像される。私にとって玉井さんは父のような存在だが、私の玉井氏への畏敬の念は強い。
まして、長年、訪れることは夢だとしか考えられなかった
「泊居」
を、玉井さんと訪れることができるのは、神の恩寵があったからこそだと思っている。
さらには、この旅の契機を作ってくれた高田さん、全集の月報に文章を寄せ、小熊に対して深い理解を持つ中本さんと同行できるのは至福といえる。
午前3時、夜汽車に乗り込む。3台連結のやや古めかしい車体である。乗客は多くはない。寝台列車でもないのに、何故このような深夜にホルムスクを発ち、早朝5時半にトマリに着くのか、その事情はわからない。この電車は週に3度しかホルムスク-トマリ間を走っていないと言う。
女性の車掌と、ごつい体の男性保安官が二人対になって一人ひとりの乗客をまわる。夜汽車とはいえ、腰に拳銃を下げた保安官が乗り込むということは、やはり、ロシアの治安が良くないということを示している。
トマリまでは157ルーブル、約500円余り。午前5時半着、各駅停車の鈍行としてもつまり2時間30分の乗車時間だから安いと言えるかもしれない。
切符の販売が終わると、保安官は暇らしく、ロシアの語のできる中本さんのところに座り、なにやら長いこと話している。保安官の名は
「フロブーシャ」
である。年齢は50歳を少し超えたくらいだろう。
フロブーシャは、自分は日本へ行っていないが、
「友人が日本に行って、日本はいい国だと言っている」
と、中本さんが時々彼の話を通訳してくれる。我々、ロシア語の出来ない3人はそれぞれに本を読んだりして時間をつぶす。私は、トマリ(旧-泊居)に行くに当たって、やはり、小熊秀雄の詩を読むべきだと思い、
「小熊秀雄詩集」
を取り出した。その中で、明らかに彼が少年時代を過ごした泊居を舞台にしたと考えられる詩
「トンボは北へ、私は南へ」
「白い夜」
を、繰り返し読んだ。
午前4時半、チェーホフ(旧-野田)駅到着。車内放送の設備がないらしく、駅が近づくと、車掌室から来た彼女はドアを開けて
「チェーホフ」
というように、大きな声で乗客に告げる。
チェーホフは、チェーホフが訪ねた町ではないが、このような名前が付けられた。サハリンでは、現在、チェーホフはどこへ行っても英雄扱いである。チェーホフ自身は、いつの日にか自分がこのような扱いをサハリンで受けるとは思ってもいなかったことだろう。
チエーホフ駅の前の広場には
「チェホフ像」
があるらしい。中本さんは、明日のトマリからの帰りの停車時間に、この像を撮影するようにと私に勧めた。もちろん、私は撮影するつもりである。
夜汽車は、次第に、詩人小熊秀雄が10年を過ごし、さまざまな職について労働し、詩への夢を紡ぎ、ついには反逆の心を胸に抱いた泊居へ近づいている。外は薄明となり、海が見えている。
私は、その薄明の夜汽車の中で、詩人の少年時代を想定した
「夢紡ぐ村」
という題の詩を書いた。私はこの詩を書きながら、この詩の題は
「反逆の村」
の方が、小熊にはふさわしいかも知れないと思った。
2009年07月26日
サハリン島-詩人たちへの旅-5.ホルムスク(旧-真岡)
午後のユジノサハリンスク(旧-豊原)からホルムスク(旧-真岡)までの道を、我々4人を乗せた車はひたすらに走る。北海道の郊外に似た風景なのだが、どこかが違う。それが、ロシアという異国の匂いであり、肌触りともいうべきものだろうか。
旧-熊笹峠へ着く。白い巨大な塔の上に、台座の付いた高射砲が天に向かっている。
プレートに書かれたロシア語の文章によると、1945年8月、ソ連軍がホルムスクを日本から解放した戦勝記念碑である。日本側から見れば、大きな犠牲を払い、真岡郵便局の電話交換手9人が集団自決を行った事実を代表とする数々の悲劇を生んだ。
この記念碑の近くに、日本軍のトーチカも残されている。戦争の歴史は、それぞれの国の立場で主観的な捉え方をするのが正しいのか、客観的で冷静な捉え方をするのが正しいのか私には判断ができない。
旧熊笹峠を降りると、海が見えた。間宮海峡(タタール海峡)である。間宮海峡を始めて目にした。
私は、吉村昭の小説
「間宮林蔵」
と、綱淵謙錠の
「苔」(たい)
で、この周辺のことを読んだ。また、江戸末期に松浦武四郎もこのあたりを歩き記録を残しているはずである。この旅が終わったら、もう一度、彼らの足跡を調べてみようと考えた。
真岡というと何と言っても朝鮮人二世作家である李恢成のことを思い出す。彼は昭和10年(1935年)に、ここ真岡で生まれ、昭和22年に母国帰還を目指し離樺したが、それを断念。札幌に定住し、早稲田露文科へ入学、日本語による創作を続けている。
私は、最近、彼のサハリンへの紀行
「サハリンへの旅」
を読んだばかりである。少年の時に、真岡を離れて以来、40年ぶりに家族と共にこの地を踏む非常に感銘ぶかい本だった。
海沿いにホルムスク(旧-真岡)の町へ入った。南北へ細長く伸びている町だった。ユジノサハリンスク(旧-豊原)からは83キロ、人口は5万2千人、ユジノサハリンスクに比べると小さな町だが、日本人とかかわりの深い町である。
町並みは、ユジノサハリンスク同様に、日本を思わせる建築物はほとんどない。ロシアの辺境の小都市という印象しか今のところはない。
午後4時、坂道を上り、高台にある今日のホテル ガスチヴォイ ドームへ到着した。送ってくれたサーシャさんと、ここで別れる。彼は、明日の夜、トマリ(旧-泊居)から列車で戻ってきた我々を、午後9時にホルムスク駅へ迎えに来てくれるはずである。
シックで感じの良いホテルである。受付で、宿泊の手続きなどをしていると、大柄な金髪の女性が、我々に話しかける。
ホルムスク市--行政府文化局長
「マリア・パーブロブナ・シドロバ」
さんだった。ユジノサハリンスクで、今朝お会いしたばかりのサハリン州文化局長のブリノヴァさんが、ホルムスクの責任者であるマリアさんへ連絡をし、彼女が中本さんを筆頭とする我々を国賓としての迎えに来てくれたのである。
このホテルの部屋は、ツインに玉井、高田さん、二つのシングルに中本さんと、私がそれぞれ割り当てられた。私のシングルの部屋は海が見え、しかも、応接間と、ベッドルームに分かれた清潔な部屋だった。値段は2500ルーブル、日本円で7875円である。
ホテルは、ユジノサハリンスクに続いて、日本でも泊まったことのない豪華な部屋に宿泊することになった。
外に出ると、マリアさんが大型のワンボックスカーに案内してくれる。運転手は、眼鏡をかけて寡黙な、マリアさんの御亭主である。
私は、教会建築に興味がある。マリアさんに頼んで、北の丘の上にある団地の横で建築中のロシア正教の教会を見せて頂く。予想外の丸太で作られたシンプルな教会で、この周辺の団地に住む人々が通うことになるらしい。
この教会の中で、キリストが描かれた
「イコン」
を見た。窓際に置かれた小さなイコン。ロシア正教会でイコンを見る・・。それは、ロシアで旅する一つの大きな目的だった。ロシア的のるものにふれる・・・それが建築中のホルムスクの教会で実現できた。
お話をしている皆さんをそのまま教会に残して、私は一人で外へ出て、丘から臨むホルムスクの町や、教会周辺の花などをカメラで撮影していると、周囲の大きな団地に住む7~8人の子供たちが集まってきた。
私が、大型の一眼レフカメラを持っているのを見て自分たちを写してもらいたいと思ったらしい。朝鮮系の少女と少女を含むロシア人の子供たち・・・。その表情の豊かさ、可愛らしさは素晴らしい。
彼らを、集合で、そして一人一人で何枚も撮り、それぞれに撮ったものを、その度に見せた。彼等は、日本ほどデジタルカメラが普及していないせいだろう、見るたびに歓声を上げて喜ぶ。
「ズドラーストビーチェ」(こんにちは)
と言うと、どうも通じていなようで、彼等は首をかしげる。もっとやさしい言葉をと思い、
「スパシーバ」(ありがとう)
と、片言のロシア語を口に出すと、表情が一斉に明るくなり、彼等も
「スパシーバ」
と、返事する。
「ダ スヴィダーニャ」(さようなら)
と子供たちに告げると、皆さんの待つ私は車の方角へ戻った。
ユジノサハリンスクでは、街の人々と触れ合う機会はなかったが、公式訪問ではない、こうした普通の生活の場所で子供たちと触れ合うことが出来たことは、私にとってはサハリンへの旅の初めての大きな喜びだった。
その後、マリアさんに車で真岡に住んでいた日本人が建てた「鎮魂碑」、展望台、レーニン広場、旧真岡神社跡などを見せて頂く。印象的だったのは、再南にあった旧王子製紙工場だった。一時はホルムスク製紙として稼働していたらしいが、今は老朽化が進み全くの廃墟だった。しかし、大きくて高い幾つもの煙突、ガッチリとした建築物の廃墟は壮絶ともいうべき存在感を示していた。
港近くのフェリー乗り場近くで夕食を食べる。マリアさんも加わって総勢5人の食事である。まず、イカ、タコ、蟹、貝刺身とサラダを食べながら乾杯。しかし、マリアさんは堂々たる体格だがアルコールは飲まないとのことで、グランベリー、ラズベリー、チェリーなどをつぶして作るジュース
「モルス」
を飲んでいる。私も、アルコールは強くないので
「モルス パジャールスタ」
と、レストランの女性に告げると一回で通じた。
「パジャールスタ」
とは、「お願いします」という意味である。日本で考えていた通り、呂氏では英語はまったく通じないという予測は当たった。それならば、沈黙しているだけで、中本さんに通訳をお願いしているだけではつまらない。
私は、いよいよ旅の前に用意した簡単な「ロシア語会話ブック」を取り出し、ロシア語に挑戦し始めた。
アクセントに注意さえすれば、ロシア語は意外と通じる。それが、ホルムスクで分かった。ロシア語を、生涯で一度も話さないだろうと思っていた私にしては、一度で通じるのはいい方かもしれない。
マリアさんには、その後、再びホテルへ送って頂き、そこでお別れをした。帰り際に、ホルムスクの大型の写真集と絵ハガキを頂く。マリアさんは、実に穏やかないい人だった。
玉井、中本、高田さんは、今日のハードなスケジュールにも関わらず、非常に元気である。
ホテルの窓からは、海に落ちゆく夕陽が見えた。明日は、午前3時(日本時間午前1時)という非常に早い出発の列車に乗り、
トマリ(旧-泊居)へ向かう。いよいよ、詩人小熊秀雄の少年時代を過ごした場所を訪れる。
旧-熊笹峠へ着く。白い巨大な塔の上に、台座の付いた高射砲が天に向かっている。
プレートに書かれたロシア語の文章によると、1945年8月、ソ連軍がホルムスクを日本から解放した戦勝記念碑である。日本側から見れば、大きな犠牲を払い、真岡郵便局の電話交換手9人が集団自決を行った事実を代表とする数々の悲劇を生んだ。
この記念碑の近くに、日本軍のトーチカも残されている。戦争の歴史は、それぞれの国の立場で主観的な捉え方をするのが正しいのか、客観的で冷静な捉え方をするのが正しいのか私には判断ができない。
旧熊笹峠を降りると、海が見えた。間宮海峡(タタール海峡)である。間宮海峡を始めて目にした。
私は、吉村昭の小説
「間宮林蔵」
と、綱淵謙錠の
「苔」(たい)
で、この周辺のことを読んだ。また、江戸末期に松浦武四郎もこのあたりを歩き記録を残しているはずである。この旅が終わったら、もう一度、彼らの足跡を調べてみようと考えた。
真岡というと何と言っても朝鮮人二世作家である李恢成のことを思い出す。彼は昭和10年(1935年)に、ここ真岡で生まれ、昭和22年に母国帰還を目指し離樺したが、それを断念。札幌に定住し、早稲田露文科へ入学、日本語による創作を続けている。
私は、最近、彼のサハリンへの紀行
「サハリンへの旅」
を読んだばかりである。少年の時に、真岡を離れて以来、40年ぶりに家族と共にこの地を踏む非常に感銘ぶかい本だった。
海沿いにホルムスク(旧-真岡)の町へ入った。南北へ細長く伸びている町だった。ユジノサハリンスク(旧-豊原)からは83キロ、人口は5万2千人、ユジノサハリンスクに比べると小さな町だが、日本人とかかわりの深い町である。
町並みは、ユジノサハリンスク同様に、日本を思わせる建築物はほとんどない。ロシアの辺境の小都市という印象しか今のところはない。
午後4時、坂道を上り、高台にある今日のホテル ガスチヴォイ ドームへ到着した。送ってくれたサーシャさんと、ここで別れる。彼は、明日の夜、トマリ(旧-泊居)から列車で戻ってきた我々を、午後9時にホルムスク駅へ迎えに来てくれるはずである。
シックで感じの良いホテルである。受付で、宿泊の手続きなどをしていると、大柄な金髪の女性が、我々に話しかける。
ホルムスク市--行政府文化局長
「マリア・パーブロブナ・シドロバ」
さんだった。ユジノサハリンスクで、今朝お会いしたばかりのサハリン州文化局長のブリノヴァさんが、ホルムスクの責任者であるマリアさんへ連絡をし、彼女が中本さんを筆頭とする我々を国賓としての迎えに来てくれたのである。
このホテルの部屋は、ツインに玉井、高田さん、二つのシングルに中本さんと、私がそれぞれ割り当てられた。私のシングルの部屋は海が見え、しかも、応接間と、ベッドルームに分かれた清潔な部屋だった。値段は2500ルーブル、日本円で7875円である。
ホテルは、ユジノサハリンスクに続いて、日本でも泊まったことのない豪華な部屋に宿泊することになった。
外に出ると、マリアさんが大型のワンボックスカーに案内してくれる。運転手は、眼鏡をかけて寡黙な、マリアさんの御亭主である。
私は、教会建築に興味がある。マリアさんに頼んで、北の丘の上にある団地の横で建築中のロシア正教の教会を見せて頂く。予想外の丸太で作られたシンプルな教会で、この周辺の団地に住む人々が通うことになるらしい。
この教会の中で、キリストが描かれた
「イコン」
を見た。窓際に置かれた小さなイコン。ロシア正教会でイコンを見る・・。それは、ロシアで旅する一つの大きな目的だった。ロシア的のるものにふれる・・・それが建築中のホルムスクの教会で実現できた。
お話をしている皆さんをそのまま教会に残して、私は一人で外へ出て、丘から臨むホルムスクの町や、教会周辺の花などをカメラで撮影していると、周囲の大きな団地に住む7~8人の子供たちが集まってきた。
私が、大型の一眼レフカメラを持っているのを見て自分たちを写してもらいたいと思ったらしい。朝鮮系の少女と少女を含むロシア人の子供たち・・・。その表情の豊かさ、可愛らしさは素晴らしい。
彼らを、集合で、そして一人一人で何枚も撮り、それぞれに撮ったものを、その度に見せた。彼等は、日本ほどデジタルカメラが普及していないせいだろう、見るたびに歓声を上げて喜ぶ。
「ズドラーストビーチェ」(こんにちは)
と言うと、どうも通じていなようで、彼等は首をかしげる。もっとやさしい言葉をと思い、
「スパシーバ」(ありがとう)
と、片言のロシア語を口に出すと、表情が一斉に明るくなり、彼等も
「スパシーバ」
と、返事する。
「ダ スヴィダーニャ」(さようなら)
と子供たちに告げると、皆さんの待つ私は車の方角へ戻った。
ユジノサハリンスクでは、街の人々と触れ合う機会はなかったが、公式訪問ではない、こうした普通の生活の場所で子供たちと触れ合うことが出来たことは、私にとってはサハリンへの旅の初めての大きな喜びだった。
その後、マリアさんに車で真岡に住んでいた日本人が建てた「鎮魂碑」、展望台、レーニン広場、旧真岡神社跡などを見せて頂く。印象的だったのは、再南にあった旧王子製紙工場だった。一時はホルムスク製紙として稼働していたらしいが、今は老朽化が進み全くの廃墟だった。しかし、大きくて高い幾つもの煙突、ガッチリとした建築物の廃墟は壮絶ともいうべき存在感を示していた。
港近くのフェリー乗り場近くで夕食を食べる。マリアさんも加わって総勢5人の食事である。まず、イカ、タコ、蟹、貝刺身とサラダを食べながら乾杯。しかし、マリアさんは堂々たる体格だがアルコールは飲まないとのことで、グランベリー、ラズベリー、チェリーなどをつぶして作るジュース
「モルス」
を飲んでいる。私も、アルコールは強くないので
「モルス パジャールスタ」
と、レストランの女性に告げると一回で通じた。
「パジャールスタ」
とは、「お願いします」という意味である。日本で考えていた通り、呂氏では英語はまったく通じないという予測は当たった。それならば、沈黙しているだけで、中本さんに通訳をお願いしているだけではつまらない。
私は、いよいよ旅の前に用意した簡単な「ロシア語会話ブック」を取り出し、ロシア語に挑戦し始めた。
アクセントに注意さえすれば、ロシア語は意外と通じる。それが、ホルムスクで分かった。ロシア語を、生涯で一度も話さないだろうと思っていた私にしては、一度で通じるのはいい方かもしれない。
マリアさんには、その後、再びホテルへ送って頂き、そこでお別れをした。帰り際に、ホルムスクの大型の写真集と絵ハガキを頂く。マリアさんは、実に穏やかないい人だった。
玉井、中本、高田さんは、今日のハードなスケジュールにも関わらず、非常に元気である。
ホテルの窓からは、海に落ちゆく夕陽が見えた。明日は、午前3時(日本時間午前1時)という非常に早い出発の列車に乗り、
トマリ(旧-泊居)へ向かう。いよいよ、詩人小熊秀雄の少年時代を過ごした場所を訪れる。


